『漫画映画論』雑記①ー今村にとってアニメートとは何かー
果たして今村太平はアニメーションを愛していたのだろうか。そんな疑問がわくほど、残念なことに、今村にはアニメーターの創造的な役割がまったく想像も理解もできていなかったーー高畑勲
今村太平の『漫画映画論』(1941年)を読書会で読んだ。国会図書館のデータベースで初版が読めるので、基本的にそちらを参照したが、同時にジブリLibrary版(2005年)*1も確認した。この本では前書きでも高畑による後書きにも、今村によるアニメートあるいはアニメーションという仕事の理解の不正確さが指摘されている(冒頭に引用したのもその一文である)。確かに、読んでいくとそう思える箇所も多々あるのだが、高畑が強烈に批判するほど今村にはアニメーターの役割を理解していなかったのだろうか?読書会での議論も踏まえて少し考えてみたい。
なお、本記事では1941年版からの引用は漢数字、2005年版からの引用は英数字でページ数を示す*2。
今村太平の「アニメート」観
今村の実際の記述を軽く振り返りたい。
まず今村は、マニファクチュアの時代に絵画を動かしたいという欲求が生まれ、幻燈のような「動く絵」として現れたと論ずる。そして、機械工業の時代に写真/映画が誕生し動きの再現は可能になったが、それでも「動く絵」への原始的欲求は絶えない。そこで生まれたのが漫画映画である。しかし、漫画映画は動く絵の継承者ではなく、動く絵の止揚であり、マニファクチュア的方法の否定である。すなわち、それまでの動く絵が画家の主観的な、仮定としての動きを再現したのに対し、マイブリッジの連続写真などを利用した漫画映画は「真実の運動を含んでいる」(31)。絵(マニファクチュア)と写真(機械)という二つの技術の、お互いを否定し合う完全な結合の上に漫画映画は存在する。アニメーティングは、「ある動きを一度写真で分解し、それを絵に書きかえる仕事」(同)であり、それは多人数による手作業で作られる点でマニファクチュアであるが、しかしまた「一面マニファクチュアの否定」(33)であって、今はまだ過渡期である。
以上が「Moving Picture」での今村のアニメートに関する議論である。一方、初版ではこの章は「漫画映画以前」と題されているのだが、少し記述が異なる。「動く絵」に関する議論や、マニファクチュア/機械という図式は同様だが、アニメートに関しては「今の漫画映画は動きの写真である」(十四)とし、「アニメーティングとは動きの忠実な再現である」(十七)と述べている。また、マニファクチュア的な労働の分割と結合(分業制)が、写真による運動の分割と絵による結合という形で漫画映画にも現れている。05年版に比べると、アニメーティングとはただ写しているだけだという印象を与える記述になっている。
この章だけではなく、全体的に増補改訂版の方がマルクス主義的な要素がより色濃い印象がある。今村自身は戦前に左翼主義運動に参加し検挙された経験もある人物であるが、なぜ改訂版で顕著になっているのかはわからない*3。
いずれにせよ重要なのは、今村が漫画映画に見出しているのは主観的な絵ではなく機械による運動の再現という側面であり、「過渡期」という表現からは最終的に機械によって作られる漫画映画という未来を幻視していることが窺える。
高畑による批判とその検証
こうした考え方を、高畑はディズニーの偉業を「「写真(映画)による分解」と「絵への書きかえ」という機械工業的な技術と分業化に矮小化してしまった」(267)と批判し、「問題は、一旦実写で撮ってどうするか、ではなくて、日頃から現実の動きを作り手が観察・把握・分析し、それを基礎に、ビリーヴァビリティのある(信じることのできる)動きを想像的に生み出せるかどうかなのだ」(269)と指摘する。これ自体は高畑のアニメーション観として興味深いが、今村への批判としては妥当だろうか?つまり、今村は本当にアニメーターの仕事を「矮小化」しているのか?
ここで問題となるのは、今村のいう「絵への書きかえ」というのがどういうものを想定していると考えられるか、である。おそらく高畑はこれをロトスコープのようなイメージで読んでいるのではないか。実際、ディズニーは実写映像を用いて『白雪姫』以降の作品を作っており、ロトスコープ技術の活用として知られるが、今村の言いたいのはこういうことなのだろうか。
実は今村がこの「書きかえ」の中身をより具体的に書いている部分がある。「漫画映画と絵画」という章の中で、彼は漫画映画の制作で最も重要な仕事をアニメーティングと述べ、「例えば『忠犬の赤毛布』の酔っぱらうネズミは、人間の酩酊状態の変形である。それは酔った人間を撮影し一コマ一コマをネズミに書きかえたものに違いない」(91)とする。つまり、彼はただなぞることを持って「書きかえ」としているわけではない。人間的な動きの再現のために写真を使い動きを分析した上で、「あのようなリアルな動き」(92)を生み出すことをアニメーティングだとしている。
要するに、今村は単に写真を使って動きを作ることがアニメーターの仕事とはしていない。写真(映画)による動きの機械的合理的分析を利用した、客観的な「リアルな」動きの形成を漫画映画の胆と考えているのだろう。そうした仕事を「止揚」として表現しているだとすれば、高畑の言いたいことと実はそんなに違いはないように見受けられる。あるとしたら、同じ事態の両面のどちらから見るか、といった違いではないだろうか。その見方の違いこそが高畑にとっては何よりも肝要であり、強烈な批判に導いたのかもしれないが……
もちろん、今村の理論はマルクス主義の色彩を帯びた、発展史観と弁証法的唯物論の影響の色濃いものであることは言うまでもない。そして全体的に独断的、恣意的な部分があるのも確かだ。そうした見方が、近代の産物である漫画映画を手工業と機械工業の側面から分析し、さらに後者の重要性を強調させた。また単純にアニメーターの仕事についての知識がおぼつかない箇所が散見されるのは事実である。
だが、「アニメーターの創造的な役割がまったく想像も理解もできていな」いとまで批判されるほどか、と言う気がしてくる、と言うのが今の私なりの結論である。
今村太平. 1941.『漫画映画論』. 第一文芸者. https://dl.ndl.go.jp/pid/1871732