карандаш

京大文学部の修士課程。

読書ノート:Rethinking Plasticity (Furuhata Yuriko, 2011)

"Rethinking Plasticity: The Politics and Production of the Animated Image"

https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/1746847710391226?journalCode=anma

こちらの論文のレジュメを切ったので備忘録も兼ねて掲載。批判点や疑問点は最後にまとめて書きます。著者のFuruhata氏はマギル大学でトーマス・ラマールのもとで研究をしていた人らしい。

以下本文

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本論文の主題……可塑性 Plasticity  という概念についての問題 

・数々の理論家がこの問題について議論してきたが、その議論はスクリーンに見えるイメージの潜在的な可塑性に集中してきた。つまりは映像作品そのものについてしか議論されてこなかった。 

・「イメージそのものを超えた可塑性の概念について考える新しい方法を探求することもまたアニメーション研究にとって有用である」(26) 

・初期ディズニー映画についての一連の論考を通して、可塑性という概念に考察を加えたい 

セルアニメーションと可塑性の関係の議論を、イメージの「知覚」を超えてイメージの「制作」の物質的な過程へと拡張したい、というのが本論文の主な主張 

 

・そのために引かれるのが今村太平と花田清輝であるが、彼らのディズニー論に行く前にフランクフルト学派エイゼンシテインのディズニー観を確認する。そこからは、当時の理論家たちのディズニーへの関心が、共通するフォーディズム1への懸念から湧いていることが見て取れる……労働的観点から読むことの必要性 

 

・まず2人の理論を導入したのち、それをアニメーションという媒体と、アニメーションの制作に関わる労働の組織化という二つの物質的状況と関係づけることで論考を進めることとなる。 

…現代の労働の問題へと続いていく 

 

フランクフルト学派とディズニー 

ベンヤミン…1930年代。ディズニーを近代の工業的生活に侵され疲弊している人々に慰めの夢を与えるものだと主張。ディズニーをユートピア的なものと評価 

ホルクハイマー・アドルノ…資本主義の統制の共犯者であると批判。殴られるドナルド・ダックは独裁者の暴力に大衆を慣れさせるものであり、ディズニーとは自動化するフォーディズム的労働の表れだと見た。 

 

・そして実際、ディズニー自身もフォーディズム(細分化、機械化による労働の孤立化と、それと同時に行う待遇改善)を導入したスタジオを構築していた 

・しかし彼らはディズニーの映像しか議論の俎上にあげていない 

 

エイゼンシテインとディズニー 

エイゼンシテインもまたベンヤミンと同様のことを考えてはいるが、ディズニーが与えるのは一時的な慰めであり、大衆を現実から目を逸らさせる装置だと考えている。だが、それはつまりフォーディズムの外側にディズニーを置いているとも言える 

 

・重要なのは、エイゼンシテインフォーディズムのもとで抑圧される労働者たちは原形質性を求めるのであり、それはアニメーションの可変的な性質によって実現されていると考えていること 

・しかし、エイゼンシテインもまたディズニースタジオ自体のフォーディズムには触れていない(ディズニーを「善悪の彼岸にいる」と表現している) 

 

・ここで、重要な視点を得るために参考になるのが今村太平と花田清輝である 

 

今村太平とディズニー 

・今村太平も、それに続く花田清輝も、ヘーゲルマルクスの哲学に大きな影響を受けていることに留意すべきである 

 

・今村はエイゼンシテインと同様に工業的資本主義とディズニーの関係に関心を持っているが、そのアプローチは本質的に分かれている 

・今村は工業的合理化と技術への礼賛をディズニーの世界に見出している 

 

・しかし重要なのは、彼がイメージを制作するその過程に、特に実写映像と写真を利用していることに目を向けている点である 

 

・今村の見るアニメーション史では、初期の視覚的玩具(ゾートロープなど)とセルアニメーションの時代の間には根本的な隔絶がある。その隔絶を作り出したのは写真の発明である 

・今村にとって、エドワード・マイブリッジの連続写真の発明を考えなければ、ディズニーについて考えたことにならない 

 

・今村の見解では、かつての玩具のような画像の動きは「仮定的」なものに過ぎなかったが、連続写真を上映した画像の動きは、カメラが捉えた実際の動きの再構築である以上、もはや仮定的ではない 

・制作においてカメラを利用している時点で、ディズニーは今村にとって初期のアニメーション装置と異なる。そこがディズニーの独特さである 

・ここで指摘しなければならないのは、今村のいうカメラの利用は、ロトスコープについての話ではない。カメラが記録した映像をコマごとに分析し、アニメーションとして再構成するという方法に関心がある(これは続く花田も同様) 

・そして、この写真の利用は、生産性の向上という観点から見ると、フォーディズムに即したディズニースタジオの工業化と同時に進行したと言える 

 

・今村はアニメーション制作の過程に関わる労働の分断divisionを、動きのフィルム写真への分解decompositionと比較し、またこの分断と分解の過程をフォード式生産様式と比較している。 

……ディズニーの写真の利用と変形と、ディズニーのフォード的制作過程の間に見出される繋がり 

 

花田清輝とディズニー 

・今村に影響を受けた花田は、ディズニーの制作様式は科学的観察というドキュメンタリー的な過程とイメージの変形というアヴァンギャルド的な過程の弁証法的総合であると主張した 

・ディズニー映画の内容を批判しつつ、その制作方法を、マルクス主義的な意味で弁証法的だとみなし、賞賛した 

 

・カメラが記録した動きが手で描く過程で変形され、一部は捨象されると同時に一部は残るという過程を経て、最終的な作品で総合されるということが、彼にとって弁証法的だった 

 

・花田の理論により、アニメーションに関わる可塑性の全く異なる概念を我々は構築することができる 

・可塑性を、形成formationと変形transformationという弁証法的過程の一種と捉えるのである 

・フランスの哲学者Catherine Malabou は形式を受け取りつつ与えるという弁証法的過程としての可塑性をヘーゲル哲学の中核概念だとみた 

・この可塑性の概念を花田の理論とともに考えると、可塑性とは、アニメーションのイメージそのものの、描かれたものが上映される中で伸びたり縮んだりするという展性のことだけではなく、イメージの制作の物質的過程をも指し示すと言えるだろう 

 

・この可塑性の議論は、花田の大衆論にも見出せる 

・花田にとって、大衆は外部の力に流されるように見えても、自分を変える力を持つ存在である(可塑性) 

・この大衆の変化する力は、フォーディズムにとっても重要である。なぜならば、ベルトコンベア式の労働は、その様式に身を慣れさせるという変化を要するから 

 

・こうしてみると、初期ディズニーは可塑性の二つの対立する様式を具現化していると言える。 

  1. イメージの制作という物質的過程
  2. 労働者の体を組織化するという規律の過程

 

・2人の理論は、こうしたフォーディズムとの直接的な関係の中で可塑性を再考するように促す 

 

 

結論 

・以上のように、メディアのレベルだけでなく労働のレベルで可塑性を考えることの必要性がわかってきた 

フォーディズムの中の可塑性は、労働者側一方だけの概念である。その点がフォーディズムの特徴とも言える 

 

・1970年以降、労働の流動性が言われるようになっており、ポストフォーディズムとも言われる。だがそこにも形を変えた可塑性が見出せるとの指摘もある 

 

・今村や花田の理論のように、現在の3Dアニメーションや実写との融合などを論じることも、またポストフォーディズムの労働のあり方について考えることもできるのではないだろうか 

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面白かった点としては、

・動きの作りにおける弁証法という観点など、今村・花田の理論の良い紹介となっていて面白い。

・アニメーションの労働環境への見方をアニメーション理論と接合しようという試み自体、意義があると思う

 

批判点としては、

フランクフルト学派エイゼンシテインの理論についての解説がさらっとしていて、特に前者が本当に画像にしか注目していないのか疑問が残る。

・Plasticity可塑性という言葉を用いているからとアニメーション理論と労働問題の理論をつなげるのはあまりに雑な論理でないか(この辺はラマールにも似たようなところがあると思う)。アニメーションはもともと魂(anima)からきてるんですよ、だからアニメには魂がこもってる!みたいな雑語りとほぼ同じ水準だと思う。

 

と言った感じ。論旨全体には頷けないが、部分部分で見ると面白いところやより深く知りたくなるようなところがあり読んでいて楽しい論文だった。また、英語自体も読みやすくかつ構成もわかりやすいのもいいポイントだった。最後の2ページくらい急展開で労働問題の話になるのでそこだけ注意が必要だが…

 

『アニメ・マシーン』雑感

小規模ながら読書会を初めて主催してきて、最初の一冊に決めていた"The Anime Machine"が終わったので備忘録的に感想を残しておきたい。 と言っても、原文で全部精読するのは冗長ということで、読んだのは有名なアニメティズムとシネマティズムに関わる「サビ」の部分のみなのだが。

ちなみにこの記事を書き始めた理由は、書くにあたってハードルを下げることで更新頻度を増やすため。

 

注:ほぼ思ったことの書き連ねなので読む価値はないと思いますがご容赦を。

 

・アニメティズムについて

この理論自体が引用されるときには、いわゆるレイヤーを感じさせるような演出や動きについての美学的な部分にのみフォーカスされることが多いように思う。例えば『新映画論』では宮崎やガイナックスのアニメ特有の平面的な空間構成をアニメティズムと捉え、山田尚子の『聲の形』のようなカメラっぽい演出によるレイヤーの強調を「擬似シネマティズム表現」と呼んでいる。こうした見方がおかしいというわけでないが、実際に原文を見るとラマールはかなり文明論的な視点でアニメ(ティズム)を考えている。近代的な、デカルト的合理主義=線遠近法に沿った動きの様式としてのシネマティズム(3D座標、弾丸、弾道の視点)に対して、そうでない世界の見方を提供するものとしてアニメティズム(パノラマ、撮影台、レイヤー)が注目されている。こうしたメディア論、文明論的な部分を無視して引用するのは少々強引に思える。少なくともその点について一言必要だろう。

そうは言ったものの、私はこうしたラマールの議論のしかたにあまり賛同できない。特に、宮崎の反近代技術という側面を、彼のレイアウトや撮影台の使い方といった技術のアニメティズムとしての卓越さと結びつけて、彼の作品に近代への疑問が見出せるという議論の進め方は牽強付会と言わざるを得ない。あるいは、宮崎の映画の脚本が「直線的な」動きを示さないことを、シネマティズム(近代)への反抗として捉えるあたりも疑問符が浮かぶ。以上のような論者がこうした文明論的側面を落としがちなのも、こうした強引さを拭い切れないからだろう。(だとしても何らかの言及が必要だろう。東の「データベース消費」をただの「萌え」論として読み、ポストモダンという問題意識を無視するのと似ている気がする。)

 

・理論の扱い方

シネマティズムとアニメティズムについて、両極端の、二項対立的なものとして捉えられがちだが、実際のところラマールは両者を混交的なものとして捉えているのがわかる。実際の作品がどちらかでしかない!ということはない。そういう意味で、いたずらに両者の間を切り分けて細分化していく議論も必要性、説得性を示すことがかなり難しいように思う。

小倉健太郎論文の中で、両者の間に位置するものとして「フライシャー的空間」を提唱したのも、フライシャースタジオの回転式撮影台を一つの(ガタリ=ラマール的)機械として捉える可能性を示そうとしたものだろう。アニメを平面性と不可分にしてしまいたくなるアニメティズムという発想に対してさらにオルタナティブを示す意味は理解できる一方で、それを示すことで理解できる美学的成果が果たしてそこまで大きなものなのか、両者の混交として理解できるものではないかという気もする。

ただ、ここで小倉のことを引用したのは別に彼を批判したいというわけではなく、彼の論文に関連して、理論というものをどう理解するのかという点で気になることがあったからだ。あるアニメに関する発表の中で、ある方が小倉の論文を参照して「『スチームボーイ』は実はアニメティズムではなく、フライシャー的空間だ」というような説明の仕方をしていた。しかしラマールも小倉も、「ある作品のこのシーンはこれ、他のあるシーンはこれ」といった形で理論を提唱しているわけではないはずだ。映像の我々の読解、理解の仕方をより詳しく見ていこうというのが理論的説明の主眼である(と思っている)。小倉が言いたいのは、「このシーンは「フライシャー的空間」だ」ということではなく、逆に「フライシャー的空間として捉えた方がこのシーンが理解できる!」だと思う。おそらくアニメティズムというものがほぼ特権的にラマールの具体例と結びついているのがこうした誤読の原因だと思うし、言いたいことはわかるのだが、自分でも注意しなければと思った。

 

以下余談

・英語としては最初はかなり構造のクセに悩まされたが、慣れるとスムーズに読めた。特に顕著なのは同格のカンマの多用と、強調構文の多用だ。ラマールはフランス語母語話者らしいのだが、そうした影響があるのだろうか?

・最近でた『メディア論の冒険者たち』にラマール、そしてその先行者であるガタリヴィリリオが取り上げられている。まだ読んでないが確認しておかなければならないだろう。

大塚英志「アトムの命題」

アトムの命題」の内容を要点をまとめたものです。

 

序章

・「手塚治虫、あるいは『鉄腕アトム』について語ることは、この国がいかに「戦後」を受容してきたかについて語ることに等しい。」(8)

・後述の「アトムの命題」がいかに戦後、その前史としての戦前・戦時下・占領期に根ざしているか、が全体のテーマ。

・アニメ漫画などのポピュラーカルチャーはしばしば歴史性を欠いているものとみなされるが、間違いなく歴史の所産。

 

第1章

・『新宝島』の、特に映画的手法の衝撃を語るトキワ荘系の漫画家たち。

 ・映画的手法が手塚の方法論として言及されるのは昭和30年代末~40年代前半。

 ・しかし、手塚自身は、漫画家の技法書[1]の中では特に映像的手法について言及しない。

→仮説 ①手塚は「映画的手法」を決して技術的に中心的には自覚していない。

            ②「映画的手法」はトキワ荘グループにより体系化された。

            ③この体系化の中で『新宝島』が起源として発見された。

……「神話」としての「新宝島体験」

・この歴史観では手塚マンガの歴史的意味合いを見失う可能性。

 

・ここで注目されるのが(しばしば手塚の特徴と指摘される)「デフォルメ」という技法の問題。

 ・石森は写実的なデッサンを誇張したものとしてデフォルメを定式化

 ・しかし手塚の技法書には登場しない。

→西上ハルオ[2]は手塚の絵の特徴を、「デフォルメ」でなく、類型化したイメージに正確に対応した絵を描ける点に見出した。

→これが手塚まんがを「映画的手法」以上に本質的に規定する方法なのではないか。

=「まんが記号説」

 

第2章

手塚の「まんが記号説」

……(手塚の)まんがの絵は、決まったパターンの、記号化[3]した絵の組み合わせでしかない。

「ある特殊な文字で話を書いている」(63)「構成要素の順列組み合わせ」(68)

東浩紀の「データベース消費」との類似性。

……ギャルゲーや萌えの源流に手塚の方法論がある。歴史的にキャラクターは構成要素への還元可能性をもつ。[4]

・「まんが記号説」の根本=「人間像そのものを「記号」「類型」として把握する視線」(76)

……・手塚自身が、マンガ史的に蓄積された「記号」をデータベース的に集積し利用したことに自覚的であった。

・「記号」の発見者としての田河水泡

・「記号」が本来の指示対象を想像させないほどに「独特のフォルム化」されている。

→手塚はこれを「デフォルメ」とする(⇔石森のリアリズム的な「デフォルメ」)

・その後、田河の作風はリアリズム的に変化

……戦時中の「記号」的な絵が「肉体」をもったものになってしまうという変化は、手塚にも同様に見出される。

→田河と同様に手塚治虫が直面した困難さ。それはいかなる歴史的所産だったのか。

 

第3章

夏目房之介の「まんが記号説」の理解

・古典的な記号の細分化によって心理・感情表現を豊かにした。

→「ここに手塚マンガの、そして、彼の方法に根源的に呪縛されている戦後まんがの本質的な困難さ」

「問題はそれ(引用注:感情表現の細分化)を「記号」的表現という古典的な手法の修正に於いて行おうとした点にある」(91)

古典的まんがのキャラクター表現

・「平面性」[5](マックス・リュティ)

内面と身体において「奥行き」がなく、線的な展開の中で極端な「美しさ」や「悪」を体現し、痛み苦しみも描かれない。

→手塚まんがや、古典的なキャラクターはこの平面性をもつ。

・「平面性」=「記号性」と見うる。

 

・そもそも、手塚はなぜ古典的まんが以上のことを語ろうとしたのか。その動機は?

・なぜ彼は記号としてのまんがを執拗に語るのか。

→注目すべきは、『新宝島』以前の習作群。

古典的キャラクターの受容の過程が見えるはず。

『勝利の日まで』(昭和20年6月作?)

……戦争との関わりの中で手塚まんがの特性がいかに発生したかを知る重要な手がかり

本作における記号的表現・リアリズムのあり方の「3種類の水準」

  1. 古典的な記号的キャラクター:戦前
  2. 精密なリアリズム:戦後
  3. 矛盾する上の二つの手法を統合した特異な水準

「戦前・戦時下のまんが表現への変容」

1.の水準

・手塚の引用するキャラクターたちは古典的なまんがの文法に従わざるを得ない。

→戦争との関わりにより、引用元の文法の範疇を超えた反応をキャラクターは示さざるを得ない。

→記号である以上不可能な、約束事からの逸脱を求められる。

 

・記号的表現のないコマ

  • 日常的な場面
  • 空爆される街や米軍機の描写

→第2の作画技法、「徹底した写実主義

『勝利の日まで』

前半:リアリズムが記号的まんが表現に侵入しつつも、後者が優位。

 ⇅コントラスト

後半:キャラクターたちはリアリズムに侵入され、圧倒される。

 

・手塚はリアリズムで、圧倒的な戦争の「現実」を描写してしまった。

……戦時下の科学的な描法との関わりcf.「兵器リアリズム」(大塚)プラモデルの箱絵や雑誌の口絵に見られる、兵器の模式図特有のリアリティ。

……なぜ、本作ではまんが的非リアリズムと科学的リアリズムが共存しているのか。

 

・戦前の漫画では、両者は棲み分けられている。

・「夢」「作中作」「ファンタジー」などで両者は明確に分かれ、二つのイデオロギーの間に軋轢はない。

・逆に、『勝利』ではその軋轢が表面化していると言える。

→人間存在を圧倒的に超越する、不条理な戦争という「現実」としての「リアリズム」[6]の戦闘機は、「平面的」なキャラクターの世界に侵入し、「心」も「身体」も傷つく存在になる、という新しい局面。

第3の水準

 

・「映像的手法」の発生

……ストーリー漫画とは実は別のきっかけで手塚の中で生じる。

 

・さらに『勝利』の中で発生した手法の存在=「死にいく身体」

・トン吉くんが撃たれる一コマ

・「手塚はここで記号の集積に過ぎない、非リアリズム的手法で描かれたキャラクターに、撃たれれば血を流す生身の肉体を与えている」(137)

→「戦後まんが」の発生の瞬間。

 

簡単に図式化するならば、

[戦争という不条理な現実]→[まんが記号の限界]→[不条理を覚える「心」と「身体」の獲得]→[まんが記号の微細化]+[映画的な構図・カット割]

という順序になる。

 

・しかし、記号的で「平面的」なキャラクター表現を用いて、リアリズム的な「心」と「身体」を追求するという困難さ・矛盾

→戦後まんがの進化の原動力+戦後まんがの主題

 

第4章

・手塚のタッチの新しさという『新宝島』の衝撃の一側面

→この新しさとは何か?

・新しさの基調としての戦後における手塚のディズニー受容の仕方を検証

 

・手塚にとって、ディズニーは占領軍文化・アメリカニズムの象徴

・ディズニー的表現と占領軍の視点は表裏一体

 

・手塚のタッチはいかにしてディズニー化したのか。

……『勝利』で一度ディズニー的表現から逸脱したものの、デビュー時にはまた意図的にそれを受容しなおしている。

 

新宝島』:主人公の等身は安定せず、冒頭は低かった(ディズニー的)のが高くなっていく。(未消化のまま混在している)

『魔法屋敷』:「魔法」(ディズニー的)と「科学」(リアリズム)の戦い

・過度なディズニー的なものからの脱却

・「魔法」→「科学」と立場を変える「たぬき」

地底国の怪人』(cf.ストーリーまんがとは何かby森下)

・科学的リアリズムがまんが的虚構を再定義する。

……科学の力で生まれたディズニー的キャラクターとしての、耳男。

「ディズニー世界から手塚世界の住人になったことで、「傷つく心」を与えられたのと同時に「死にいく体」をも与えられた」(179)

ロストワールド

・植物から生み出された少女

→その目的は「およめさん」にするため+ラストはママンゴ星のアダムとイヴになる。

「性をもつ身体」

=ディズニー的世界からの逸脱

 

→しかしながら、「性を与えられた少年少女たちはこの後成熟を留保し続けねばならない運命」(184)

 

第5章

・手塚の目指したのは、非リアリズム的記号によるリアリズム

・一方で、絵によるリアリズム表現も試みられていた

→『幽霊男』(『勝利』や習作版『ロストワールド』と同時期、敗戦間近の作)のコブラ姫(「性をもつ体」の系譜)

・手塚は人工的身体・記号的身体に性を与えようとする博士の欲望を繰り返し描く。

(←80年代以降の「おたく的表現」の問題との連続性)

コブラ姫はまだ記号化していない。記号的美少女の源流にある「リアリズム」的なコブラ

……「手塚が「記号」の向こう側に何を隠していたのかが窺われる」(198)

・人造かつ生身でもある、矛盾した身体をもつキャラクターのリアリズム

→記号的表現の過程の中で重要

 

習作版『ロストワールド』:生々しい性・死・残虐描写。リアリズムの暴走

メトロポリス

・「記号的表現」への自己言及

 ・ミッチィはタンパク質を持ち、内臓の存在が示唆される。

 ……記号的身体との決定的な違い

→ミッキーとは違う、生々しく中身の詰まった「身体」

アトム大使

・アトムは対立する2国間の「和平大使」

→日米講和の時代の反映

・強大な力を持ちつつ対話による平和を模索するアトム

……「日本国憲法的平和主義」(218戦後民主主義の申し子。

手塚のキャラクター:「記号」的キャラクターに生身の身体=成長し死ぬ運命

「アトム」:「人間の生まれ変わり」だが、人工であるために成長できない。

→手塚の手法への批評的な自己言及。

→記号によるまんがの表現方法の限界への自己言及であり、同時に戦後まんが史を通底する主題の成立。

アトムの命題

「成熟の不可能性を与えられたキャラクターは、しかし、いかにして成長しうるのか」

アトム大使』の結論……平和大使の役目を全うする事で「おとな」のかおを得て、成長する。

→・日本をアメリカが成長させる、というマッカーサーの呪縛を暗示

 ・和平に反対しアトムを嫌う天馬博士……当時の日本人の抱えた矛盾

アメリカとの単独講和によらない、もう一つの日本のありえた「成長」を暗示する「アトム」の成長。

 

→「アトムの命題」は戦後まんがの問題として受け継がれ続ける。

Ex.ピノコどろろ星飛雄馬、矢吹城など

これらの名作が「自身の身体性への違和感を抱え、その上に彼らの「心」を萌芽し、そして、それが「まんが」という本来、非リアリズム的表現である手法によって」描かれた。(228)

……「アトムの命題」ゆえ

→映画的手法以上に戦後まんが史を本質から規定している

この「アトムの命題」は、戦前から戦後の歴史体験の中で、蓄積され、受容し、主題化。

 記号的表現との戦いと同時に、歴史と政治との軋轢の中で生じたもの。

 

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[1] 漫画家自身が子供や若い読者向けに漫画の書き方を説明する本。大塚だけでなくマンガ研究の本ではしばしば作家の自覚する方法論の参照点となる。

[2]新宝島』をトレス刊行した人物。手塚マンガの映像的手法について文章を残した。

[3] 「記号的」とか「記号化」は、文字と同様に、汗=焦り、雷=驚き、砂埃=スピードのようにある程度1対1対応する意味内容を示す「シンボル」としての記号を指している。単に絵柄が単純、ハンコ絵だといった話ではない。

[4] データベース消費の問題意識は絵柄のみに囚われた話ではなく、文化論としておたく/ポストモダンの人々が何を消費しているのかまで関わるものであるはず。大塚も決してギャルゲーにいきなり構成要素への還元可能性が現れたわけではないと指摘しているのみだが、少なくともこの点によって東の理論が無価値になるものではない。

[5] 絵柄の話ではないことに注意すべき。いわゆる「スーパーフラット」のような話ではない。

[6] ここでいう現実やリアリズムは絵柄の正確さにとどまらず、何を描くかという次元に踏み込んでいる。

 

以下感想

キャラクターの身体論の一つの古典なので読んでみたのですが、非常に論点がはっきりしていて読みやすいので、学部生が最初に読む本としていいのではと思った。値段的にも。

いわゆるキャラ/キャラクター論にも通ずる論点が詰まっているわけだが、個人的には「性をもつ体」という話が非常に面白く感じられた。エロ漫画なんかはもはや一般化しているのだが、そこにある一種の転倒に注目した理論的研究もありかもしれないーー

卒業論文「現代日本のアニメーションにおける語りの様式:カメラレンズ的表現に着目して」

以下は私が卒業論文として提出したものを先生方のアドバイスを受けて少々改変したものです。決して出来の良いものではありませんが、我が家に永遠に眠っているのも残念なので公開してしまおうかと思います。あまり内容には期待しないでください。

 

以下本文

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現代日本のアニメーションにおける語りの様式:カメラレンズ的表現に着目して」

序論

観た者にカメラやレンズの存在を想起させるような表現は、絵をコマ撮りによって動かすタイプのアニメーション作品の中でも行われることがある。例えば、撮影監督の泉津井陽一は、「撮影」[1]の仕事を一般向けに解説するなかで、「レンズを通して見たときに現れる様々な現象を、画面上で再現する」(泉津井 2016)表現が「撮影」の工程で作られていることを紹介しており、カメラの画角に太陽などの光源が入る時に強い光がレンズなどに反射して映像に光が現れるレンズフレアや、直接レンズに付く汚れの再現、また古いレンズや映像に特有の現象である色収差などの効果を説明している。このような表現は、歴史的な変化や作品ごとのスタイルの違いがありながらも、アニメの表現全体で非常によく見られるものとなっており、現代のアニメにおける支配的な様式として確立していると言えるだろう[2]

本稿では、「レンズを通して撮影する時に特有の現象を意図的にアニメにおいて再現し、物語世界外[3]にあるカメラを指示しているように見える表現」を総称して「カメラレンズ的表現」と呼称する。そして、本稿で今後分析の対象としたいのは、この「カメラレンズ的表現」が、アニメの「実在感」ともいうべき感覚を高めるという現象である。この現象の一つの例として、アニメ監督の山田尚子はインタビュー記事において、以下のように述べている。

 

山田

もともと実写的なアプローチが好きなんです。レンズを意識したり、望遠気味に撮ったり。〔中略〕演出するうえでも「カメラで被写体に迫る」という感覚が強くて。

―なるほど。それがキャラクターの実在感にも繋がっていると思います。(筆者注:インタビュアーの発言)

山田

キャラクターをひとりの人間として扱うことは大切にしています。「絵空事のキャラクター」としてではなく、「この子はどう思っているのかな」「どんな景色が見えているんだろう?」そういった目線でキャラクターに接している。それも実写的なアプローチに繋がっているのかもしれません。(沖本 2015)

 

ここからわかるのは、山田とインタビュアー双方が、「レンズを意識」する表現を使うことが「キャラクターの実在感」が高まるという感覚を共有していることである。特に山田は作品内でレンズフレア色収差などの効果を用いることで知られており、ここでいう「レンズを意識」する表現というのは、「カメラレンズ的表現」を指していると考えられる。このインタビューから伺える、「カメラレンズ的表現」によって「キャラクターの実在感」が高められるという感覚は、現代のアニメを鑑賞する人たち一般に広く受け入れられているのではないだろうか。

しかしながら、この「実在感」はよく考えてみれば奇妙である。フィクション映画の場合には作品世界内に存在していないはずのカメラの存在が画面上に示唆されること自体が、そのフィクション性を暴露し、作品世界の「実在感」を損なうと考えられる。その上、アニメが描かれた絵を動かす表現形式である以上、カメラが「ある」という表現は実写映画でのレンズフレアなどの現象以上に奇妙なものに見えてもおかしくないはずである。それにもかかわらず、実際にはむしろ「カメラレンズ的表現」があることによってアニメに「実在感」を感じられる。この事態をどのように説明すればいいのだろうか。

この事態について、アニメが写真的リアリズムを獲得しようとした結果として生まれた表現だという考え方もできると思われる。現実で撮影された写真をなぞるように背景を描くというスーパーリアリズム的な手法がアニメに頻繁に見られるが、これは写真の持つ「インデックス性」と呼ばれるような特徴をアニメに持ち込むことによって一種の「リアルさ」を表現しようとするものだと考えられる。「カメラレンズ的表現」もまた写真における現象をアニメに持ち込むものと言えるのだから、同様に写真的リアリズムを得るための手段として見ればいいのではないか。

本稿の立場では、写真的リアリズムの一環という「カメラレンズ的表現」の側面を決して否定しない。しかしながら、それだけでは「キャラクターの実在感」のメカニズムを説明できないのではないだろうか。紹介した山田の発言などを見ると、ただ画面が写真的になるというだけで「実在感」と言っている訳ではなく、背景などに比べると明らかにデフォルメがなされ写真的リアリズムに従って描かれている訳ではないキャラクターに関しても「実在感」が得られると述べている。「カメラレンズ的表現」が現実を撮った写真と同様の印象を与えるということは確かかもしれないが、そこから「キャラクターの実在感」が生じることまで直接説明するのは無理がある。だとするならば、「カメラレンズ的表現」と「キャラクターの実在感」の間の関係性についてさらなる分析が必要となるだろう。

以上で、本稿における最も重要な問題意識が明確になった。なぜ「カメラレンズ的表現」は、アニメのフィクション性を暴露してしまう可能性を孕んでいながら、アニメの「実在感」といったものを破壊するのではなく、むしろ高めると感じられているのだろうか。写真的リアリズムでは説明できそうにない、「カメラレンズ的表現」と「キャラクターの実在感」との関係性はどのようなものなのか。その二つの間の関係性は、一体どのような構造によって結ばれているのだろうか。

このような問題について分析することには、以下のような学術的意義があると考えられる。まず、本稿はあくまでアニメという形式に限った議論を展開するが、一方で「カメラレンズ的表現」に類する表現はマンガやイラスト、ゲームなどのキャラクターを表現するメディア全般でも見られるものである。従って、本稿の分析はキャラクター表現全体への理解にもつながりうるだろう。また、当然ながらレンズフレアなどの表現は実写の映画にも見られるものである。映画学者の渡邉大輔が指摘するように、現代の映像文化においてはアニメーションと実写映像との間の混淆とも言える事態が進行しており(渡邉 2022、284-286)、本稿の「カメラレンズ的表現」がアニメの中で一般的になっているのもその一環と言えるだろう。メディアそれぞれの固有性を離れて、それぞれの間の境界がなくなり混淆していく「ポストメディウム的状況」は現代の映像文化の一つの特徴としてしばしば指摘されるが、本稿の議論もそうした状況に対するものとして捉えることができ、映像文化全体を射程に捉えうる可能性を持っていると言えるだろう。

 本稿は以下のような構成をとる。第1章では、上記の問題設定に根本的に関わる重要な基本概念を整理する。第2章では「カメラレンズ的表現」が成立するために必要な前提として考えられる「映画的様式」について検討したのち、映画やカメラをアニメに導入する各種表現の分類を提示する。その中で「カメラレンズ的表現」が占める位置がわかると、その後の議論がより明晰になるだろう。第3章では、「カメラレンズ的表現」がアニメの語り(narration)に関わるものであることを示し、物語論を応用することによって「実在感」の理論的説明を試みる。そして第4章ではキャラクター表現論を導入し、それによって序論で提示した問題に直接回答する。

 

1. 基本概念の整理

1.1 「アニメ」

本題に入る前にまず、基本的な概念を整理したい。

ここまで説明せずに使ってきた「アニメ」というメディアについてある程度特徴づけを行いたい。アニメーションという表現形式は本来、粘土や人形を用いた作品や、抽象的な図形の動きで構成された作品など多様な表現を包含するものである。だが、今後の議論で扱うのは、その中でも特に日本国内で「アニメ」と呼ばれて制作・鑑賞されている、キャラクター表現としてのアニメーションである。アニメの表現形式としての特徴には、以下のような点が挙げられる。なお、本稿の目的からアニメの内容についての特徴は考慮する必要がないので、ここでは表現の形式に関わる特徴のみ列挙している。

 

(1)頭身の高さなど作品によって程度の違いはあるが、人物はデフォルメされた状態で描かれている。

(2)人物やそれに類するロボットなどのオブジェクトは線画で、またはセルルックに描かれる一方で、背景については水彩画のように線画がないか、あるいは目立たない形で描かれることが多い。

(3)ディズニーなどのフル・アニメーションと比較して、主に3コマ打ちや止め絵などを利用するリミテッド・アニメーションという手法でアニメートされる。

 

本稿では、広い意味でのアニメーションと区別し、このような表現上の特徴を持つ映像をアニメと呼称する。今後の「カメラレンズ的表現」についての議論の中でも、アニメのこれらの性質を前提とすることがあるだろう。

1.2 「美的イリュージョン」

 次に明らかにしておきたいのは、本稿の議論にとって最も重要となる「実在感」とは何かである。より正確に言えば、アニメで描かれるキャラクターに「実在感」があると言われる時、それは一体何を意味しているのだろうか。ここで重要なのは、アニメの特徴の中で確認したように、アニメのキャラクターはデフォルメされた、記号的な姿で描かれていることである。つまり、この「実在感」とは、被造物であることが受容者にとっても了解されているにもかかわらず、そこに何らかの現実と似た感覚を覚えていると言うことになる。

 このような意味での「実在感」とは、「美的イリュージョン[4]aesthetic illusion」のことを指していると考えられる。Wolf(2014)は、美的イリュージョンを、「多くの写実的なテキスト、人工物またはパフォーマンスを受容する際に頻繁に起こる、基本的に喜ばしい精神状態」[5]であり、「程度の違いはあるが、表象された世界のなかに想像的にも感情的にも没頭しているという感覚と、この世界を現実世界と(全く同一ではないが)似た方法で経験しているという感覚によって主として構成されている」[6](paragraph 1)としている。被造物としてのキャラクターに実在感を感じるという感覚は、この美的イリュージョンの一つとして考えることができるだろう。

この美的イリュージョンと同様の概念が、日本のキャラクター表現の文脈においても議論されている。伊藤(2014)が漫画の「リアリティ」を議論する際に用いた「現前性」である。

 

そもそも、リアリティ=「リアルであること」が問題にされるのは、どんな方法であれ「表現されたもの」の場合に限られる。(中略)さらにリアリティとは、「もっともらしさ」と「現前性」とに分けて考えることができる。作中世界の事件やものごとをいかにも「実際にありそうなこと」に感じさせるという意味での「もっともらしさ」と、作中世界を、あたかも自分の目の前で起きているように感じさせたり、作品世界の出来事がありそうかありそうでないかにかかわらず、作品世界そのものがあたかも「ある」かのように錯覚させることである「現前性」である。(伊藤 2014、113)

 

この文章の中で伊藤が「現前性」という言葉で指している内容は、美的イリュージョンと共通している。従って、伊藤の現前性に関する理論は、美的イリュージョンに関する種々の議論とともに応用することが可能であろう。

本稿では以後、これまで「実在感」「美的イリュージョン」「現前性」と様々な言葉で指示されていた概念について、「美的イリュージョン」という表現に統一する。この「美的イリュージョン」と「現前性」との間の互換性が、物語論と日本のキャラクター表現論との間をつなぐ媒介項となるだろう。

 

 2「カメラレンズ的表現」とは何か

2.1 「カメラレンズ的表現」の前提

 第2章では、そもそも「カメラレンズ的表現」とは何なのか、それはいかなる構造を有しているのかについて分析する。序論で述べたことの繰り返しになるが、本稿では「レンズを通して撮影する時に特有の現象を意図的にアニメにおいて再現する表現」を「カメラレンズ的表現」と定義している。具体的には、レンズフレアやレンズに付着した汚れの再現、色収差、(場合によっては)魚眼レンズなどの特殊なパースなどを想定している。

しかしながら、これらの表現技法が使用されているからといって、即座にそれがカメラレンズの存在を示す表現であると理解されるとは限らない。例えばレンズフレアが使用されていたとしても、それがレンズの内部構造に反射した光を模しているのではなく、実際に作品世界内に光源があるという解釈も取りうるはずである。それにもかかわらず、それらの表現を、レンズを意識した表現として受容する慣習が成立しているのならば、そこにはさらに、アニメを実写映画と同じような目線で見るという慣習があることが前提となっているのではないか。

 そこで、まず「カメラレンズ的表現」そのものについての議論に入る前に、この前提について考えていきたい。そしてその前提となっていると思われるのが、三輪健太郎が提唱する「映画的様式」である。

2.2 「映画的様式」

 アニメやマンガと実写映画とを比較する研究や批評はこれまでに数多くある。三輪は、マンガにおける映画との関係についての過去の議論の蓄積を概観し、それがメディウムの特性や、同一化技法のような特定の映画的(それもハリウッド映画を代表する特定の物語映画群を意識した)とされる技法に拘泥してきたと批判した。そして、メディウムや技法ではなく、具体的なスタイルに即して考えなければならないとし、重要なのは映画的技法とされるものが「映画的」と捉えられる「映画的様式」であると主張した(三輪 2014、109-174)。本稿の議論に即して考えるならば、「カメラレンズ的表現」がカメラレンズを表現しているように捉えられるのも、この「映画的様式」という慣習が存在するからだと考えることができるだろう。また、彼は初期アニメーションでは描かれたものはすべて、ただの線や点と等価の存在であり、いくらでも変形・消去が可能な存在であったことを指摘する(ibid. 202-203)。そして、種々の議論を検討した結果、「映画的様式」を空間的には「コマの中に描かれた光景が本来「インクのしみ」でしかないことを隠蔽し、そこに「仮想的なカメラ」によって捉えられた現実同様の「空間」を現出させるスタイル」(ibid. 218)であり、編集という面では「「仮想的なカメラ」によって(特定の時点における特定の視点からの)後継を切り取り、読者の視線を誘導することでそれらの光景を継起的に眺めさせる、というスタイル」(ibid. 283-284)と考えるに至る。この意味での「映画的様式」が現代のマンガやアニメでは様式として定着しており、その結果として「カメラレンズ的表現」が成り立っていると考えるべきなのである。

ここで確認しておきたいのが、「映画的様式」が必ずしも写実主義的な描写を要求するわけではないことである。写実主義的なアニメは定義上「映画的様式」にならざるを得ないが、逆は成り立たない。あくまで空間の描写方法が現実同様の「空間」を想起させるというだけであり、記号的な描写を用いても「映画的様式」にしたがったアニメを描くことは可能なはずである。

2.3 現象学的カメラ」とその構造的分類

 「映画的様式」について一通り確認したところで本来の議論に戻る。重要なのは、映画的様式の中で想定されている「仮想的なカメラ」と、「カメラレンズ的表現」がその存在を指し示していると思われる「カメラ」とは同一視できないことである。

三輪の「仮想的なカメラ」とは、アニメにおける空間が、3次元空間を光学的な法則に従って描写される際に設定される(ように見える)視点のことを指している。要するに、アニメにおける空間認識の法則性が問題とされている。一方で「カメラレンズ的表現」は、確かに「映画的様式」をその存在上の基盤としているが、定義上空間認識が光学的法則に従っているかどうかとは独立している。もちろん、両者の間には強い相関があり、実際には「仮想的なカメラ」が強く意識された作品において「カメラレンズ的表現」もよく用いられるかもしれないが、少なくとも理論上は別のものとして捉えることができるだろう。その違いは、画面に直接描き込まれる形でカメラが想起されるか、それとも空間把握のあり方という点でカメラが想起されるかという点に集約される。

このような違いがありながらも、両者の間には重要な共通点がある。それは、どちらも受容者側に「カメラがどうやらそこにあるらしい」という印象を抱かせることである。この曖昧としか言いようのない印象は、実はアニメに限らず、実写映画を対象とする映画理論においても重要なものとなっている。Pierson(2015)は、3Dアニメに関するカメラの動きについての研究をする中で、重要なのは実際にカメラがどのように使われているかではなく、我々が鑑賞する際にカメラがどのような動きをしていると感じられるかという現象学的な問題であると指摘し、映画のカメラについての過去の理論家たちの議論もまたその現象学的な問題を対象としているのだと指摘している(6–9)。Pierson自身がこのような言葉を使った訳ではないが、「我々がアニメを見ている時に、作品世界内にはないのにも関わらずそこにあると感じられるようなカメラ」を、彼の言葉遣いに倣って「現象学的カメラ」と呼びたい。「映画的様式」も「カメラレンズ的表現」も、いずれもこの「現象学的カメラ」を指示しているのである。

一方で、先ほど確認したように両者が指し示す「カメラ」には違いがあったはずである。つまり、「カメラレンズ的表現」が直接画面上に描き込まれるのに対し、「映画的様式」は画面の空間描写から想起されるものであるという相違点である。この違いに注目して「現象学的カメラ」を分類することができる。すなわち、「現象学的カメラ」のうち、画面に直接描き込まれる形で我々にその存在を示すものを「顕在的なカメラ」、画面に直接は現れないがその空間把握のあり方からその存在が我々に想起されるものを「潜在的なカメラ」とそれぞれ定義する。それぞれに「カメラレンズ的表現」と「映画的様式」が対応しており、「潜在的なカメラ」は「仮想的なカメラ」と同一視できる。ただし、「仮想的なカメラ」に比べて対比関係がわかりやすいことと、”virtual camera”が3DCGのレンダリングのフレームを決定するシステム上のカメラを指す言葉として定着しており混同を招く可能性があることから、今後は基本的に「潜在的なカメラ」を使用する。

このように分類することによって、「カメラレンズ的表現」と「映画的様式」という、非常に強く結びついていながらも繊細な違いを有する二つの概念を我々は明確に理解することが可能になるだろう。その理解が、これから先の議論の基盤となる。

なお、最後に言及しておかなければならないのは、作品世界内に存在しているカメラの映像がそのままアニメの画面で使われるPOVショットなどの事例である。例えば、登場人物が撮影する映像や監視カメラの映像が出てくる場合がそれに当たる。見かけ上は「顕在的なカメラ」とも非常によく似ているのだが、「現象学的カメラ」は定義上作品世界外にあるので、これらの事例は実はその中には含まないことになる。従って、このような事例を「現象学的カメラ」と区別して「作品世界内カメラ」とする。以上の分類の関係性を樹形図に起こしたのが図1である。

 

図1 アニメにおける「カメラ」の分類の概念図



以上で本稿が必要とする分類が完了した。それを図示すると図1のようになる。この分類によってようやく我々は、類似する映画的な演出などと混同することなく、何を指しているのかを明確に共有することができるだろう。

 

3 物語論

3.1 物語論

 ここまでの議論を踏まえた上で、次に導入するのが物語論である。その中でも特に、ジュネットに代表される、構造主義的に物語の構成要素を分析しようとする研究を参照する。彼らの理論やそれに続く物語論に共通する基礎的な特徴として、物語を物語言説と物語内容という二つの水準に分けて考えている点、そして物語を生産する行為を語りnarration[7]として分析の対象にしている点が挙げられる。言語学者の橋本の整理によれば、物語言説とは小説におけるテクストそのものであり、映画やマンガに敷衍した場合には映像や音声そのものを指す。物語内容は物語言説が意味する内容であり、両者の関係は言語学におけるシニフィアンシニフィエの関係に対応している。語りとは、語り手narratorが物語言説を作り出すことによって物語内容を伝えようとする行為に他ならない(橋本 2014、76–112)。

 ここで物語論を導入しようとした理由は、「現象学的カメラ」について語りという概念に即して考えることができるかもしれないからである。しかし、物語論を応用するにあたってはまず考えなければならないことがある。それは、映画やアニメにおいても語り手や語りという行為が存在すると考えることができるのかどうか、という問題である。

3.2 映画的語り手cinematic narratorについて

 映画に語り手を想定するのが適当かどうかという問題は常に議論されてきた。ジュネットも含め、基本的に物語論は文学理論から出発しており、その理論を他のメディアにも応用するには検討が必要となる。文学における語り手と同様の語り手は映画などの映像メディアにもあるといえるのだろうか。あるとしたらそれは文学の語り手と同一なのか、それとも何か相違点があるのだろうか。

Thomson-Jones(2009)は、映画的語り手についてのさまざまな議論を整理している。ここでいう映画的語り手とは、言葉によってではなく、映像や音声を通じて映画の中で起きる出来事を詳細に伝える潜在的な虚構的語り手implicit fictional narratorのことを指している。映画における潜在的な語り手とは何かという問題に、文学の語り手についての主要な説を適用しようとしても齟齬をきたすため、映画的語り手特有の性質を考えなければならない。もし映画的語り手の存在を示そうとするならば、映画の主要な様式が、物語の中にいるという感覚ではなく、物語の中での出来事を見ているという想像imagined seeingである必要がある。なぜならば、鑑賞者が物語の中にいると感覚している場合には媒介者としての語り手が必要ないが、物語の中の出来事を見ていると想像している場合には、我々に出来事を虚構的に示している(fictional showing)何者かがいると想像されなくてはならないからだ。実際のところ、どちらが映画の主要な様式であるのかについて定説は今のところないが、後者の説を採る場合の映画的語り手のあり方について考えることはできる。その場合の映画的語り手とは、写真と同等の即時性と正確性を備えたイメージを生み出す虚構的な媒介者、つまり’grand image-maker’となる。

このように、映画的語り手の存在の必要性を認めるか否かにはさまざまな見解があるが、一番重要な対立点は、映画の様式を「見ているという想像」だとする立場をとるのか否かである。本稿においては、映画的語り手が存在するという説を採用する。なぜならば、本稿が映画の物語論を応用するのはあくまで「カメラレンズ的表現」について明らかにするためであり、その表現が「顕在的なカメラ」を指し示す時点で、その映像を(実際にはどうであれ)あるカメラを通じて見ている感覚を呼び起こす、つまり「見ているという想像」を行わせていると考えることができるからである。また、アニメがそもそも描かれた絵であること、つまり被造性を前提とされていることからも、そこにfictional showingの存在を見てとることはできるだろう。したがって以下では、アニメ全体において語り手がいるという前提に立って議論を進める。

ただし、ここで注意しなければならないのは、アニメの語り手の全てが’grand image-maker’だと考えることはできないことである。Thomson-Jonesの整理した議論は実写映画に即したものに限定されており、アニメーションについては考えられていない。そのため、語り手は写真のような即時性と正確性を持つものとして考えられている。アニメについてもこの定義を持ち込むことは無理があるが、しかし「映画的様式」のアニメに限定すれば語り手を’grand image-maker’と同一視することもできる。

したがって以下では、正確性を期し混同を避けるため、アニメにおける語り手全般を「アニメ的語り手」、そのうち「映画的様式」のアニメにおける語り手を「擬似映画的語り手」とそれぞれ呼称する。前者はアニメにおいてfictional showingを行なっているとされる語り手全体を指し、後者はそのうち「映画的様式」のアニメにおける、カメラと同様に光学的法則に従い、即時性と正確性を持って映像を作り出すとみなすことにされている語り手である。ここで重要なのは、後者が映画的とされるのはあくまで擬似的なのであって、必ずしも正確に実写映画と同じような語り方を採用する必要がないということである。我々は、「擬似的映画的語り手」の語りを、カメラのようなものを使って行われているとみなしているに過ぎないのだと言うべきだろう。

3.3 メタナレーション

 「擬似映画的語り手」を第2章で整理したアニメのカメラについての分類に対応させるならば、「潜在的なカメラ」によって物語言説としての映像を作り出し、我々に物語内容を伝える語り手だと言える。つまり、包含関係から言って、「現象学的カメラ」は「擬似映画的語り手」の語りの基盤になっていると言えるだろう。だとするならば、「潜在的なカメラ」と共に「現象学的カメラ」を構成する「顕在的なカメラ」を指し示す「カメラレンズ的表現」は、「映画的様式」のアニメの語りの行為の一端を物語言説上において指し示していると言えるだろう。

このような、語りの行為そのものを指し示している物語言説上の表現を、Neumann& Nünning(2014)はメタフィクションと区別しメタナレーションmetanarrationとして定義している。

 

メタナレーションとメタフィクションは自己反省的な発話、つまり物語内容ではなく物語言説を指示するコメントを示す包括的な用語である。両者は関係性がありしばしば言い換えられる形で使われることもあるが、これらの用語は区別するべきである。メタナレーションは語りという行為や過程への語り手の反省を指示する一方、メタフィクションは物語の虚構性と/あるいは被造物性へのコメントと関わる。(Neumann&Nünning 2014,paragraph 1)[8]

 

この定義もまた文学の物語論を念頭に置いているのだが、我々はすでに先ほど映画的語り手とアニメにおける語りの存在を仮定した。したがって、このメタナレーションをアニメについても応用することは可能だろう。「カメラレンズ的表現」は、メタナレーションの一つとみなすことができる。

なぜあえてメタナレーションを導入して議論をしようとしているのか。本稿の主題は、「カメラレンズ的表現」と美的イリュージョンとの関係であった。そして、非常に重要なことに、メタナレーションと美的イリュージョンとの間にはある特殊な関係性があるようなのである。Nünningによれば、メタナレーションは語りという行為をあらわにすることによって物語としての美的イリュージョンを損なうことがある一方で、場合によってはむしろ美的イリュージョンを高めうるのだという。語り手の人格化された語りの声の存在を示すことによって、語りのリアリズムとでもいうべき新たな美的イリュージョンを得られると言うのである(Nünning 2005,17)。この理論は、「カメラレンズ的表現」による美的イリュージョンの構造を一見説明できるように思われる。

しかし、彼の理論をそのまま「カメラレンズ的表現」の場合にも適用することはできない。なぜならば、すでに述べたように、Nünningの理論は基本的に文学理論として読むべきであり、アニメに応用するのには慎重さが求められるからである。語り手の存在を仮定したからといって、いやむしろ文学の語り手と映画的語り手や「アニメ的語り手」との違いを確認してきたからこそ、安易に応用するべきではない。だが、それでもこのNünningの語りの美的イリュージョンというアイデア自体はアニメにおいても応用可能に思える。本稿では、彼が主張するメタナレーションによるイリュージョンという考え方がアニメに適用可能かどうかを一旦保留し、一方でその発想の元となる「語りにおける美的イリュージョン」がアニメにおいてどのような形で現れるのかを分析することとする。

 そのために有用となると思われるのが、伊藤剛の「キャラ」/「キャラクター」論である。

 

4. キャラクター表現論

4.1 「キャラ」と「キャラクター」

 マンガ研究者の伊藤剛は、マンガ表現に関するキャラクターという言葉についてより概念的に理解しやすくするために、「キャラ」と「キャラクター」の二つの次元に分けて考えることを提唱した。伊藤によるそれぞれの定義は以下のとおりである。「キャラ」とは、「多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの」であり、それに対して「「キャラクター」とは、「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの」と定義している(伊藤 2014、126)。

伊藤の定義はマンガ研究のためのものであるが、マンガとアニメが共に現代のキャラクター文化の一部を担っている点から、この「キャラ」と「キャラクター」の理論をアニメに応用することは可能であろう。

 伊藤による定義は非常に複合的な要因を孕むものであるが、そうした複雑さを割り切って簡潔に整理してしまうならば、「キャラ」は紙面や画面という物語言説の側にある存在で、「キャラクター」はその物語言説の指す物語内容において描かれる人格を指していると考えることができるであろう。いわば、それぞれ実写映画における俳優と登場人物の関係と類比的に考えることができる[9]

 また、第2章で行ったアニメにおけるカメラの分類に即していえば、「キャラクター」と同じ次元にあるのは「物語世界内カメラ」だけである。一方で、「現象学的カメラ」は「キャラ」と同一の次元に存在すると考えられる。比喩的な言い方をすれば、「現象学的カメラ」によって「キャラ」が撮影され生まれるのが「映画的様式」のマンガやアニメといった作品の物語言説と言えるだろう。

4.2 山田尚子のインタビューに見る「キャラ」/「キャラクター」

ここで改めて我々が目的としているのが何だったかについて最終確認をしたい。序論で引用した山田尚子のインタビューから見られるように、「カメラレンズ的表現」はどうやらキャラクターの実在感、美的イリュージョンを高めているようである。一見するとフィクション性を高めているように見えるこの表現がなぜ美的イリュージョンを高めるのかを分析するのがこれまでの目標であった。

しかし、伊藤の「キャラ」/「キャラクター」論を導入したことで改めて考えるべきことが一つ出現する。それは、ここで実在感が現れるとされるキャラクターとは、どちらの次元を指しているのかという問題である。

そこで、山田のインタビューの文面を再度確認すると、前半では「演出するうえでも「カメラで被写体に迫る」という感覚が強」いと述べている。これは、いかにして登場人物たちを画面に登場させるかという意味で、「キャラ」の次元について話していると考えられる。一方で後半では、「「絵空事のキャラクター」としてではなく、「この子はどう思っているのかな」「どんな景色が見えているんだろう?」そういった目線でキャラクターに接している」(沖本 2015)と発言している。これは、人格を持つ存在としての「キャラクター」に言及していると言える。そしてその両者が「カメラレンズ的表現」と関係していることになっている。

つまり、ここで我々が明らかにすべきなのは、「キャラ」と「キャラクター」双方の美的イリュージョンと「カメラレンズ的表現」の関係なのである。すると、どちらから分析を進めればいいのかを考えるべきだろう。

しかし、これは非常に明確に回答が出せる問題である。「カメラレンズ的表現」は「現象学的カメラ」を指し示すのだから、「キャラ」と同じ物語言説の次元に存在する。ならば、「カメラレンズ的表現」によって生み出される美的イリュージョンについて明らかにするには、この「キャラ」の持つ現前性/美的イリュージョンとの関係をまず分析することが必要だろう。

4.3 「カメラレンズ的表現」と「キャラ」

 

 まず分析するのは「キャラ」についてである。「キャラ」を「カメラレンズ的表現」を用いて描くことによって美的イリュージョンが生まれるとしたら、なぜか。ここでやはり重要となるのは、「カメラレンズ的表現」がメタナレーションとして指し示すのが「擬似的映画的語り手」の語りだということである。これは、2.2や3.2において指摘したように、実際にカメラを使って撮影したような写実性を備えているかとは独立に、カメラと同様の即時性と正確性を持って映像が作られているとみなされるという語りであると言える。先ほど確認したように、「キャラ」とは線画を基本とした記号的な描き方をされる図像そのものであり、被造物としての虚構性を必ず備えてしまう。だが、「擬似的映画的語り手」の語りによって示される画面は、即時性と正確性を持っているというふうにみなすことになっている。そのような語りの様式が、「映画的様式」によって成立していると考えられる。そして、その「擬似的映画的語り手」の存在をキャラと同次元に存在する「カメラレンズ的表現」が「顕在的なカメラ」を通じて指し示している。このことによって、結果として描かれている画面が写実主義的な方法で描かれているかとは独立に、「キャラ」の虚構性が隠蔽され、その美的イリュージョンが高められるのではないだろうか。

 「カメラレンズ的表現」が「キャラ」の美的イリュージョンを高める構造をこれで示すことができた。次にしなければならないのは、「カメラレンズ的表現」と「キャラクター」のイリュージョンの関係についてである。

 しかし、この関係については比較的簡単に考えられる。先述の通り「キャラクター」は「キャラ」の実在感を基盤として成立している。先ほどの論理で「キャラ」がその本来持つ虚構性を隠蔽された時、「キャラクター」の美的イリュージョンも同時に高まりうるのは自然である。当然、そのようにならない場合もあるかもしれないが、しかし一つの構造的回路として、「カメラレンズ的表現」によって虚構性が隠蔽され美的イリュージョンを高めた「キャラ」によって、より実在感のある「キャラクター」が描写できるようになるという流れは非常に明快であろう。

5. 結論

 ここまで、「カメラレンズ的表現」と呼ぶものとアニメにおける美的イリュージョンとの関係性を、物語表現としてのアニメの構造に注目することによって分析してきた。簡単に要約するならば、まずアニメについてカメラが想起される表現の中で「カメラレンズ的表現」と呼称した表現が置かれている地位を確認した。その上で、主に映画の物語論を導入し、また「カメラレンズ的表現」をメタナレーションとして見ることで、「語り」の美的イリュージョンという概念を考える可能性を開いた。そして、伊藤剛のキャラクター表現論を応用することで、「カメラレンズ的表現」が示す語りの様式が、「キャラ」の虚構性を隠蔽しイリュージョンを高めるように作用しているのだと結論づけた。また、「キャラ」のイリュージョンが高まることで自動的に、「キャラクター」のイリュージョンの方も高まりうることを示した。

 ここで行ってきた議論は、あるいは常識的なことをあえて迂遠な方法で言い直しているだけに見えるかもしれない。それはある意味では当然であり、現代のアニメがこのような様式を用いて物語を描いているということは、それが支配的な様式であるがために、普通意識されるものではない。しかしながら、先に述べたように、その意識されないでいる様式を明らかにしなければ、今現在のアニメ表現がどのようなものであるのかはわからない。本稿でアニメに語りの全てを明らかにしたとは言えないかもしれないが、しかしそのうちの一端を明らかにできたのではないだろうか。

 

引用文献

日本語文献

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伊藤剛(2014) 『テヅカ・イズ・デッド星海社星海社新書

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外国語文献

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[1] アニメの制作の中で、動画素材をつなげて動かす、さまざまな特殊効果を入れるなどの工程は一般に撮影と呼ばれる。本稿では、アニメにおける撮影をカメラによる一般的な意味と区別するため、「撮影」とかっこ付きで表記する。

[2] 例えば小倉(2021) が、いかに現代のアニメにおいてレンズを意識した表現が多様な形で表れているかを示している。

[3] ここでいう物語世界とは作品内の登場人物らが存在するとされる世界全体を指しており、端的に言えば物語世界外にあるとは、登場人物が認識できないということである。

[4] Aesthetic illusionの定訳が無いため、本稿では暫定的に「美的イリュージョン」と訳した。

[5] [原文] “a basically pleasurable mental state that frequently emerges during the reception of many representational texts, artifacts or performances”

[6] [原文] ” Aesthetic illusion consists primarily of a feeling, with variable intensity, of being imaginatively and emotionally immersed in a represented world and of experiencing this world in a way similar (but not identical) to real life”

[7] 映画などでのボイスオーバーによる「語り」とは違う意味であることに注意しなければならない。

[8] [原文] ”Metanarration and metafiction are umbrella terms designating self-reflexive utterances, i.e. comments referring to the discourse rather than to the story. Although they are related and often used interchangeably, the terms should be distinguished: metanarration refers to the narrator’s reflections on the act or process of narration; metafiction concerns comments on the fictionality and/or constructedness of the narrative. ”

[9] 当然ながら現実にいる俳優と現実にはいない「キャラ」は全く同一視できない。ここで言っているのはあくまでアレゴリーである。