карандаш

京大文学部の修士課程。

読書ノート:Rethinking Plasticity (Furuhata Yuriko, 2011)

"Rethinking Plasticity: The Politics and Production of the Animated Image"

https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/1746847710391226?journalCode=anma

こちらの論文のレジュメを切ったので備忘録も兼ねて掲載。批判点や疑問点は最後にまとめて書きます。著者のFuruhata氏はマギル大学でトーマス・ラマールのもとで研究をしていた人らしい。

以下本文

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本論文の主題……可塑性 Plasticity  という概念についての問題 

・数々の理論家がこの問題について議論してきたが、その議論はスクリーンに見えるイメージの潜在的な可塑性に集中してきた。つまりは映像作品そのものについてしか議論されてこなかった。 

・「イメージそのものを超えた可塑性の概念について考える新しい方法を探求することもまたアニメーション研究にとって有用である」(26) 

・初期ディズニー映画についての一連の論考を通して、可塑性という概念に考察を加えたい 

セルアニメーションと可塑性の関係の議論を、イメージの「知覚」を超えてイメージの「制作」の物質的な過程へと拡張したい、というのが本論文の主な主張 

 

・そのために引かれるのが今村太平と花田清輝であるが、彼らのディズニー論に行く前にフランクフルト学派エイゼンシテインのディズニー観を確認する。そこからは、当時の理論家たちのディズニーへの関心が、共通するフォーディズム1への懸念から湧いていることが見て取れる……労働的観点から読むことの必要性 

 

・まず2人の理論を導入したのち、それをアニメーションという媒体と、アニメーションの制作に関わる労働の組織化という二つの物質的状況と関係づけることで論考を進めることとなる。 

…現代の労働の問題へと続いていく 

 

フランクフルト学派とディズニー 

ベンヤミン…1930年代。ディズニーを近代の工業的生活に侵され疲弊している人々に慰めの夢を与えるものだと主張。ディズニーをユートピア的なものと評価 

ホルクハイマー・アドルノ…資本主義の統制の共犯者であると批判。殴られるドナルド・ダックは独裁者の暴力に大衆を慣れさせるものであり、ディズニーとは自動化するフォーディズム的労働の表れだと見た。 

 

・そして実際、ディズニー自身もフォーディズム(細分化、機械化による労働の孤立化と、それと同時に行う待遇改善)を導入したスタジオを構築していた 

・しかし彼らはディズニーの映像しか議論の俎上にあげていない 

 

エイゼンシテインとディズニー 

エイゼンシテインもまたベンヤミンと同様のことを考えてはいるが、ディズニーが与えるのは一時的な慰めであり、大衆を現実から目を逸らさせる装置だと考えている。だが、それはつまりフォーディズムの外側にディズニーを置いているとも言える 

 

・重要なのは、エイゼンシテインフォーディズムのもとで抑圧される労働者たちは原形質性を求めるのであり、それはアニメーションの可変的な性質によって実現されていると考えていること 

・しかし、エイゼンシテインもまたディズニースタジオ自体のフォーディズムには触れていない(ディズニーを「善悪の彼岸にいる」と表現している) 

 

・ここで、重要な視点を得るために参考になるのが今村太平と花田清輝である 

 

今村太平とディズニー 

・今村太平も、それに続く花田清輝も、ヘーゲルマルクスの哲学に大きな影響を受けていることに留意すべきである 

 

・今村はエイゼンシテインと同様に工業的資本主義とディズニーの関係に関心を持っているが、そのアプローチは本質的に分かれている 

・今村は工業的合理化と技術への礼賛をディズニーの世界に見出している 

 

・しかし重要なのは、彼がイメージを制作するその過程に、特に実写映像と写真を利用していることに目を向けている点である 

 

・今村の見るアニメーション史では、初期の視覚的玩具(ゾートロープなど)とセルアニメーションの時代の間には根本的な隔絶がある。その隔絶を作り出したのは写真の発明である 

・今村にとって、エドワード・マイブリッジの連続写真の発明を考えなければ、ディズニーについて考えたことにならない 

 

・今村の見解では、かつての玩具のような画像の動きは「仮定的」なものに過ぎなかったが、連続写真を上映した画像の動きは、カメラが捉えた実際の動きの再構築である以上、もはや仮定的ではない 

・制作においてカメラを利用している時点で、ディズニーは今村にとって初期のアニメーション装置と異なる。そこがディズニーの独特さである 

・ここで指摘しなければならないのは、今村のいうカメラの利用は、ロトスコープについての話ではない。カメラが記録した映像をコマごとに分析し、アニメーションとして再構成するという方法に関心がある(これは続く花田も同様) 

・そして、この写真の利用は、生産性の向上という観点から見ると、フォーディズムに即したディズニースタジオの工業化と同時に進行したと言える 

 

・今村はアニメーション制作の過程に関わる労働の分断divisionを、動きのフィルム写真への分解decompositionと比較し、またこの分断と分解の過程をフォード式生産様式と比較している。 

……ディズニーの写真の利用と変形と、ディズニーのフォード的制作過程の間に見出される繋がり 

 

花田清輝とディズニー 

・今村に影響を受けた花田は、ディズニーの制作様式は科学的観察というドキュメンタリー的な過程とイメージの変形というアヴァンギャルド的な過程の弁証法的総合であると主張した 

・ディズニー映画の内容を批判しつつ、その制作方法を、マルクス主義的な意味で弁証法的だとみなし、賞賛した 

 

・カメラが記録した動きが手で描く過程で変形され、一部は捨象されると同時に一部は残るという過程を経て、最終的な作品で総合されるということが、彼にとって弁証法的だった 

 

・花田の理論により、アニメーションに関わる可塑性の全く異なる概念を我々は構築することができる 

・可塑性を、形成formationと変形transformationという弁証法的過程の一種と捉えるのである 

・フランスの哲学者Catherine Malabou は形式を受け取りつつ与えるという弁証法的過程としての可塑性をヘーゲル哲学の中核概念だとみた 

・この可塑性の概念を花田の理論とともに考えると、可塑性とは、アニメーションのイメージそのものの、描かれたものが上映される中で伸びたり縮んだりするという展性のことだけではなく、イメージの制作の物質的過程をも指し示すと言えるだろう 

 

・この可塑性の議論は、花田の大衆論にも見出せる 

・花田にとって、大衆は外部の力に流されるように見えても、自分を変える力を持つ存在である(可塑性) 

・この大衆の変化する力は、フォーディズムにとっても重要である。なぜならば、ベルトコンベア式の労働は、その様式に身を慣れさせるという変化を要するから 

 

・こうしてみると、初期ディズニーは可塑性の二つの対立する様式を具現化していると言える。 

  1. イメージの制作という物質的過程
  2. 労働者の体を組織化するという規律の過程

 

・2人の理論は、こうしたフォーディズムとの直接的な関係の中で可塑性を再考するように促す 

 

 

結論 

・以上のように、メディアのレベルだけでなく労働のレベルで可塑性を考えることの必要性がわかってきた 

フォーディズムの中の可塑性は、労働者側一方だけの概念である。その点がフォーディズムの特徴とも言える 

 

・1970年以降、労働の流動性が言われるようになっており、ポストフォーディズムとも言われる。だがそこにも形を変えた可塑性が見出せるとの指摘もある 

 

・今村や花田の理論のように、現在の3Dアニメーションや実写との融合などを論じることも、またポストフォーディズムの労働のあり方について考えることもできるのではないだろうか 

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面白かった点としては、

・動きの作りにおける弁証法という観点など、今村・花田の理論の良い紹介となっていて面白い。

・アニメーションの労働環境への見方をアニメーション理論と接合しようという試み自体、意義があると思う

 

批判点としては、

フランクフルト学派エイゼンシテインの理論についての解説がさらっとしていて、特に前者が本当に画像にしか注目していないのか疑問が残る。

・Plasticity可塑性という言葉を用いているからとアニメーション理論と労働問題の理論をつなげるのはあまりに雑な論理でないか(この辺はラマールにも似たようなところがあると思う)。アニメーションはもともと魂(anima)からきてるんですよ、だからアニメには魂がこもってる!みたいな雑語りとほぼ同じ水準だと思う。

 

と言った感じ。論旨全体には頷けないが、部分部分で見ると面白いところやより深く知りたくなるようなところがあり読んでいて楽しい論文だった。また、英語自体も読みやすくかつ構成もわかりやすいのもいいポイントだった。最後の2ページくらい急展開で労働問題の話になるのでそこだけ注意が必要だが…