「アトムの命題」の内容を要点をまとめたものです。
序章
・「手塚治虫、あるいは『鉄腕アトム』について語ることは、この国がいかに「戦後」を受容してきたかについて語ることに等しい。」(8)
・後述の「アトムの命題」がいかに戦後、その前史としての戦前・戦時下・占領期に根ざしているか、が全体のテーマ。
・アニメ漫画などのポピュラーカルチャーはしばしば歴史性を欠いているものとみなされるが、間違いなく歴史の所産。
第1章
・『新宝島』の、特に映画的手法の衝撃を語るトキワ荘系の漫画家たち。
・映画的手法が手塚の方法論として言及されるのは昭和30年代末~40年代前半。
・しかし、手塚自身は、漫画家の技法書[1]の中では特に映像的手法について言及しない。
→仮説 ①手塚は「映画的手法」を決して技術的に中心的には自覚していない。
②「映画的手法」はトキワ荘グループにより体系化された。
③この体系化の中で『新宝島』が起源として発見された。
……「神話」としての「新宝島体験」
・この歴史観では手塚マンガの歴史的意味合いを見失う可能性。
・ここで注目されるのが(しばしば手塚の特徴と指摘される)「デフォルメ」という技法の問題。
・石森は写実的なデッサンを誇張したものとしてデフォルメを定式化
・しかし手塚の技法書には登場しない。
→西上ハルオ[2]は手塚の絵の特徴を、「デフォルメ」でなく、類型化したイメージに正確に対応した絵を描ける点に見出した。
→これが手塚まんがを「映画的手法」以上に本質的に規定する方法なのではないか。
=「まんが記号説」
第2章
手塚の「まんが記号説」
……(手塚の)まんがの絵は、決まったパターンの、記号化[3]した絵の組み合わせでしかない。
「ある特殊な文字で話を書いている」(63)「構成要素の順列組み合わせ」(68)
←東浩紀の「データベース消費」との類似性。
……ギャルゲーや萌えの源流に手塚の方法論がある。歴史的にキャラクターは構成要素への還元可能性をもつ。[4]
・「まんが記号説」の根本=「人間像そのものを「記号」「類型」として把握する視線」(76)
……・手塚自身が、マンガ史的に蓄積された「記号」をデータベース的に集積し利用したことに自覚的であった。
・「記号」の発見者としての田河水泡
・「記号」が本来の指示対象を想像させないほどに「独特のフォルム化」されている。
→手塚はこれを「デフォルメ」とする(⇔石森のリアリズム的な「デフォルメ」)
・その後、田河の作風はリアリズム的に変化
……戦時中の「記号」的な絵が「肉体」をもったものになってしまうという変化は、手塚にも同様に見出される。
→田河と同様に手塚治虫が直面した困難さ。それはいかなる歴史的所産だったのか。
第3章
夏目房之介の「まんが記号説」の理解
・古典的な記号の細分化によって心理・感情表現を豊かにした。
→「ここに手塚マンガの、そして、彼の方法に根源的に呪縛されている戦後まんがの本質的な困難さ」
「問題はそれ(引用注:感情表現の細分化)を「記号」的表現という古典的な手法の修正に於いて行おうとした点にある」(91)
古典的まんがのキャラクター表現
・「平面性」[5](マックス・リュティ)
内面と身体において「奥行き」がなく、線的な展開の中で極端な「美しさ」や「悪」を体現し、痛み苦しみも描かれない。
→手塚まんがや、古典的なキャラクターはこの平面性をもつ。
・「平面性」=「記号性」と見うる。
・そもそも、手塚はなぜ古典的まんが以上のことを語ろうとしたのか。その動機は?
・なぜ彼は記号としてのまんがを執拗に語るのか。
→注目すべきは、『新宝島』以前の習作群。
古典的キャラクターの受容の過程が見えるはず。
『勝利の日まで』(昭和20年6月作?)
……戦争との関わりの中で手塚まんがの特性がいかに発生したかを知る重要な手がかり
本作における記号的表現・リアリズムのあり方の「3種類の水準」
- 古典的な記号的キャラクター:戦前
- 精密なリアリズム:戦後
- 矛盾する上の二つの手法を統合した特異な水準
:「戦前・戦時下のまんが表現への変容」
1.の水準
・手塚の引用するキャラクターたちは古典的なまんがの文法に従わざるを得ない。
→戦争との関わりにより、引用元の文法の範疇を超えた反応をキャラクターは示さざるを得ない。
→記号である以上不可能な、約束事からの逸脱を求められる。
・記号的表現のないコマ
- 日常的な場面
- 空爆される街や米軍機の描写
→第2の作画技法、「徹底した写実主義」
『勝利の日まで』
前半:リアリズムが記号的まんが表現に侵入しつつも、後者が優位。
⇅コントラスト
後半:キャラクターたちはリアリズムに侵入され、圧倒される。
・手塚はリアリズムで、圧倒的な戦争の「現実」を描写してしまった。
……戦時下の科学的な描法との関わりcf.「兵器リアリズム」(大塚)プラモデルの箱絵や雑誌の口絵に見られる、兵器の模式図特有のリアリティ。
……なぜ、本作ではまんが的非リアリズムと科学的リアリズムが共存しているのか。
・戦前の漫画では、両者は棲み分けられている。
・「夢」「作中作」「ファンタジー」などで両者は明確に分かれ、二つのイデオロギーの間に軋轢はない。
・逆に、『勝利』ではその軋轢が表面化していると言える。
→人間存在を圧倒的に超越する、不条理な戦争という「現実」としての「リアリズム」[6]の戦闘機は、「平面的」なキャラクターの世界に侵入し、「心」も「身体」も傷つく存在になる、という新しい局面。
→第3の水準
・「映像的手法」の発生
……ストーリー漫画とは実は別のきっかけで手塚の中で生じる。
・さらに『勝利』の中で発生した手法の存在=「死にいく身体」
・トン吉くんが撃たれる一コマ
・「手塚はここで記号の集積に過ぎない、非リアリズム的手法で描かれたキャラクターに、撃たれれば血を流す生身の肉体を与えている」(137)
→「戦後まんが」の発生の瞬間。
簡単に図式化するならば、
[戦争という不条理な現実]→[まんが記号の限界]→[不条理を覚える「心」と「身体」の獲得]→[まんが記号の微細化]+[映画的な構図・カット割]
という順序になる。
・しかし、記号的で「平面的」なキャラクター表現を用いて、リアリズム的な「心」と「身体」を追求するという困難さ・矛盾
→戦後まんがの進化の原動力+戦後まんがの主題
第4章
・手塚のタッチの新しさという『新宝島』の衝撃の一側面
→この新しさとは何か?
・新しさの基調としての戦後における手塚のディズニー受容の仕方を検証
・手塚にとって、ディズニーは占領軍文化・アメリカニズムの象徴
・ディズニー的表現と占領軍の視点は表裏一体
・手塚のタッチはいかにしてディズニー化したのか。
……『勝利』で一度ディズニー的表現から逸脱したものの、デビュー時にはまた意図的にそれを受容しなおしている。
『新宝島』:主人公の等身は安定せず、冒頭は低かった(ディズニー的)のが高くなっていく。(未消化のまま混在している)
↓
『魔法屋敷』:「魔法」(ディズニー的)と「科学」(リアリズム)の戦い
・過度なディズニー的なものからの脱却
・「魔法」→「科学」と立場を変える「たぬき」
↓
『地底国の怪人』(cf.ストーリーまんがとは何かby森下)
・科学的リアリズムがまんが的虚構を再定義する。
……科学の力で生まれたディズニー的キャラクターとしての、耳男。
「ディズニー世界から手塚世界の住人になったことで、「傷つく心」を与えられたのと同時に「死にいく体」をも与えられた」(179)
↓
『ロストワールド』
・植物から生み出された少女
→その目的は「およめさん」にするため+ラストはママンゴ星のアダムとイヴになる。
→「性をもつ身体」
=ディズニー的世界からの逸脱
→しかしながら、「性を与えられた少年少女たちはこの後成熟を留保し続けねばならない運命」(184)
第5章
・手塚の目指したのは、非リアリズム的記号によるリアリズム
・一方で、絵によるリアリズム表現も試みられていた
→『幽霊男』(『勝利』や習作版『ロストワールド』と同時期、敗戦間近の作)のコブラ姫(「性をもつ体」の系譜)
・手塚は人工的身体・記号的身体に性を与えようとする博士の欲望を繰り返し描く。
(←80年代以降の「おたく的表現」の問題との連続性)
・コブラ姫はまだ記号化していない。記号的美少女の源流にある「リアリズム」的なコブラ姫
……「手塚が「記号」の向こう側に何を隠していたのかが窺われる」(198)
・人造かつ生身でもある、矛盾した身体をもつキャラクターのリアリズム
→記号的表現の過程の中で重要
習作版『ロストワールド』:生々しい性・死・残虐描写。リアリズムの暴走
↓
『メトロポリス』
・「記号的表現」への自己言及
・ミッチィはタンパク質を持ち、内臓の存在が示唆される。
……記号的身体との決定的な違い
→ミッキーとは違う、生々しく中身の詰まった「身体」
↓
『アトム大使」
・アトムは対立する2国間の「和平大使」
→日米講和の時代の反映
・強大な力を持ちつつ対話による平和を模索するアトム
……「日本国憲法的平和主義」(218)戦後民主主義の申し子。
手塚のキャラクター:「記号」的キャラクターに生身の身体=成長し死ぬ運命
「アトム」:「人間の生まれ変わり」だが、人工であるために成長できない。
→手塚の手法への批評的な自己言及。
→記号によるまんがの表現方法の限界への自己言及であり、同時に戦後まんが史を通底する主題の成立。
「アトムの命題」
「成熟の不可能性を与えられたキャラクターは、しかし、いかにして成長しうるのか」
『アトム大使』の結論……平和大使の役目を全うする事で「おとな」のかおを得て、成長する。
→・日本をアメリカが成長させる、というマッカーサーの呪縛を暗示
・和平に反対しアトムを嫌う天馬博士……当時の日本人の抱えた矛盾
・アメリカとの単独講和によらない、もう一つの日本のありえた「成長」を暗示する「アトム」の成長。
→「アトムの命題」は戦後まんがの問題として受け継がれ続ける。
これらの名作が「自身の身体性への違和感を抱え、その上に彼らの「心」を萌芽し、そして、それが「まんが」という本来、非リアリズム的表現である手法によって」描かれた。(228)
……「アトムの命題」ゆえ
→映画的手法以上に戦後まんが史を本質から規定している
この「アトムの命題」は、戦前から戦後の歴史体験の中で、蓄積され、受容し、主題化。
記号的表現との戦いと同時に、歴史と政治との軋轢の中で生じたもの。
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[1] 漫画家自身が子供や若い読者向けに漫画の書き方を説明する本。大塚だけでなくマンガ研究の本ではしばしば作家の自覚する方法論の参照点となる。
[2] 『新宝島』をトレス刊行した人物。手塚マンガの映像的手法について文章を残した。
[3] 「記号的」とか「記号化」は、文字と同様に、汗=焦り、雷=驚き、砂埃=スピードのようにある程度1対1対応する意味内容を示す「シンボル」としての記号を指している。単に絵柄が単純、ハンコ絵だといった話ではない。
[4] データベース消費の問題意識は絵柄のみに囚われた話ではなく、文化論としておたく/ポストモダンの人々が何を消費しているのかまで関わるものであるはず。大塚も決してギャルゲーにいきなり構成要素への還元可能性が現れたわけではないと指摘しているのみだが、少なくともこの点によって東の理論が無価値になるものではない。
[5] 絵柄の話ではないことに注意すべき。いわゆる「スーパーフラット」のような話ではない。
[6] ここでいう現実やリアリズムは絵柄の正確さにとどまらず、何を描くかという次元に踏み込んでいる。
以下感想
キャラクターの身体論の一つの古典なので読んでみたのですが、非常に論点がはっきりしていて読みやすいので、学部生が最初に読む本としていいのではと思った。値段的にも。
いわゆるキャラ/キャラクター論にも通ずる論点が詰まっているわけだが、個人的には「性をもつ体」という話が非常に面白く感じられた。エロ漫画なんかはもはや一般化しているのだが、そこにある一種の転倒に注目した理論的研究もありかもしれないーー