карандаш

京大文学部の修士課程。

『アニメ・マシーン』雑感

小規模ながら読書会を初めて主催してきて、最初の一冊に決めていた"The Anime Machine"が終わったので備忘録的に感想を残しておきたい。 と言っても、原文で全部精読するのは冗長ということで、読んだのは有名なアニメティズムとシネマティズムに関わる「サビ」の部分のみなのだが。

ちなみにこの記事を書き始めた理由は、書くにあたってハードルを下げることで更新頻度を増やすため。

 

注:ほぼ思ったことの書き連ねなので読む価値はないと思いますがご容赦を。

 

・アニメティズムについて

この理論自体が引用されるときには、いわゆるレイヤーを感じさせるような演出や動きについての美学的な部分にのみフォーカスされることが多いように思う。例えば『新映画論』では宮崎やガイナックスのアニメ特有の平面的な空間構成をアニメティズムと捉え、山田尚子の『聲の形』のようなカメラっぽい演出によるレイヤーの強調を「擬似シネマティズム表現」と呼んでいる。こうした見方がおかしいというわけでないが、実際に原文を見るとラマールはかなり文明論的な視点でアニメ(ティズム)を考えている。近代的な、デカルト的合理主義=線遠近法に沿った動きの様式としてのシネマティズム(3D座標、弾丸、弾道の視点)に対して、そうでない世界の見方を提供するものとしてアニメティズム(パノラマ、撮影台、レイヤー)が注目されている。こうしたメディア論、文明論的な部分を無視して引用するのは少々強引に思える。少なくともその点について一言必要だろう。

そうは言ったものの、私はこうしたラマールの議論のしかたにあまり賛同できない。特に、宮崎の反近代技術という側面を、彼のレイアウトや撮影台の使い方といった技術のアニメティズムとしての卓越さと結びつけて、彼の作品に近代への疑問が見出せるという議論の進め方は牽強付会と言わざるを得ない。あるいは、宮崎の映画の脚本が「直線的な」動きを示さないことを、シネマティズム(近代)への反抗として捉えるあたりも疑問符が浮かぶ。以上のような論者がこうした文明論的側面を落としがちなのも、こうした強引さを拭い切れないからだろう。(だとしても何らかの言及が必要だろう。東の「データベース消費」をただの「萌え」論として読み、ポストモダンという問題意識を無視するのと似ている気がする。)

 

・理論の扱い方

シネマティズムとアニメティズムについて、両極端の、二項対立的なものとして捉えられがちだが、実際のところラマールは両者を混交的なものとして捉えているのがわかる。実際の作品がどちらかでしかない!ということはない。そういう意味で、いたずらに両者の間を切り分けて細分化していく議論も必要性、説得性を示すことがかなり難しいように思う。

小倉健太郎論文の中で、両者の間に位置するものとして「フライシャー的空間」を提唱したのも、フライシャースタジオの回転式撮影台を一つの(ガタリ=ラマール的)機械として捉える可能性を示そうとしたものだろう。アニメを平面性と不可分にしてしまいたくなるアニメティズムという発想に対してさらにオルタナティブを示す意味は理解できる一方で、それを示すことで理解できる美学的成果が果たしてそこまで大きなものなのか、両者の混交として理解できるものではないかという気もする。

ただ、ここで小倉のことを引用したのは別に彼を批判したいというわけではなく、彼の論文に関連して、理論というものをどう理解するのかという点で気になることがあったからだ。あるアニメに関する発表の中で、ある方が小倉の論文を参照して「『スチームボーイ』は実はアニメティズムではなく、フライシャー的空間だ」というような説明の仕方をしていた。しかしラマールも小倉も、「ある作品のこのシーンはこれ、他のあるシーンはこれ」といった形で理論を提唱しているわけではないはずだ。映像の我々の読解、理解の仕方をより詳しく見ていこうというのが理論的説明の主眼である(と思っている)。小倉が言いたいのは、「このシーンは「フライシャー的空間」だ」ということではなく、逆に「フライシャー的空間として捉えた方がこのシーンが理解できる!」だと思う。おそらくアニメティズムというものがほぼ特権的にラマールの具体例と結びついているのがこうした誤読の原因だと思うし、言いたいことはわかるのだが、自分でも注意しなければと思った。

 

以下余談

・英語としては最初はかなり構造のクセに悩まされたが、慣れるとスムーズに読めた。特に顕著なのは同格のカンマの多用と、強調構文の多用だ。ラマールはフランス語母語話者らしいのだが、そうした影響があるのだろうか?

・最近でた『メディア論の冒険者たち』にラマール、そしてその先行者であるガタリヴィリリオが取り上げられている。まだ読んでないが確認しておかなければならないだろう。