карандаш

京大文学部の修士課程。

卒業論文「現代日本のアニメーションにおける語りの様式:カメラレンズ的表現に着目して」

以下は私が卒業論文として提出したものを先生方のアドバイスを受けて少々改変したものです。決して出来の良いものではありませんが、我が家に永遠に眠っているのも残念なので公開してしまおうかと思います。あまり内容には期待しないでください。

 

以下本文

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現代日本のアニメーションにおける語りの様式:カメラレンズ的表現に着目して」

序論

観た者にカメラやレンズの存在を想起させるような表現は、絵をコマ撮りによって動かすタイプのアニメーション作品の中でも行われることがある。例えば、撮影監督の泉津井陽一は、「撮影」[1]の仕事を一般向けに解説するなかで、「レンズを通して見たときに現れる様々な現象を、画面上で再現する」(泉津井 2016)表現が「撮影」の工程で作られていることを紹介しており、カメラの画角に太陽などの光源が入る時に強い光がレンズなどに反射して映像に光が現れるレンズフレアや、直接レンズに付く汚れの再現、また古いレンズや映像に特有の現象である色収差などの効果を説明している。このような表現は、歴史的な変化や作品ごとのスタイルの違いがありながらも、アニメの表現全体で非常によく見られるものとなっており、現代のアニメにおける支配的な様式として確立していると言えるだろう[2]

本稿では、「レンズを通して撮影する時に特有の現象を意図的にアニメにおいて再現し、物語世界外[3]にあるカメラを指示しているように見える表現」を総称して「カメラレンズ的表現」と呼称する。そして、本稿で今後分析の対象としたいのは、この「カメラレンズ的表現」が、アニメの「実在感」ともいうべき感覚を高めるという現象である。この現象の一つの例として、アニメ監督の山田尚子はインタビュー記事において、以下のように述べている。

 

山田

もともと実写的なアプローチが好きなんです。レンズを意識したり、望遠気味に撮ったり。〔中略〕演出するうえでも「カメラで被写体に迫る」という感覚が強くて。

―なるほど。それがキャラクターの実在感にも繋がっていると思います。(筆者注:インタビュアーの発言)

山田

キャラクターをひとりの人間として扱うことは大切にしています。「絵空事のキャラクター」としてではなく、「この子はどう思っているのかな」「どんな景色が見えているんだろう?」そういった目線でキャラクターに接している。それも実写的なアプローチに繋がっているのかもしれません。(沖本 2015)

 

ここからわかるのは、山田とインタビュアー双方が、「レンズを意識」する表現を使うことが「キャラクターの実在感」が高まるという感覚を共有していることである。特に山田は作品内でレンズフレア色収差などの効果を用いることで知られており、ここでいう「レンズを意識」する表現というのは、「カメラレンズ的表現」を指していると考えられる。このインタビューから伺える、「カメラレンズ的表現」によって「キャラクターの実在感」が高められるという感覚は、現代のアニメを鑑賞する人たち一般に広く受け入れられているのではないだろうか。

しかしながら、この「実在感」はよく考えてみれば奇妙である。フィクション映画の場合には作品世界内に存在していないはずのカメラの存在が画面上に示唆されること自体が、そのフィクション性を暴露し、作品世界の「実在感」を損なうと考えられる。その上、アニメが描かれた絵を動かす表現形式である以上、カメラが「ある」という表現は実写映画でのレンズフレアなどの現象以上に奇妙なものに見えてもおかしくないはずである。それにもかかわらず、実際にはむしろ「カメラレンズ的表現」があることによってアニメに「実在感」を感じられる。この事態をどのように説明すればいいのだろうか。

この事態について、アニメが写真的リアリズムを獲得しようとした結果として生まれた表現だという考え方もできると思われる。現実で撮影された写真をなぞるように背景を描くというスーパーリアリズム的な手法がアニメに頻繁に見られるが、これは写真の持つ「インデックス性」と呼ばれるような特徴をアニメに持ち込むことによって一種の「リアルさ」を表現しようとするものだと考えられる。「カメラレンズ的表現」もまた写真における現象をアニメに持ち込むものと言えるのだから、同様に写真的リアリズムを得るための手段として見ればいいのではないか。

本稿の立場では、写真的リアリズムの一環という「カメラレンズ的表現」の側面を決して否定しない。しかしながら、それだけでは「キャラクターの実在感」のメカニズムを説明できないのではないだろうか。紹介した山田の発言などを見ると、ただ画面が写真的になるというだけで「実在感」と言っている訳ではなく、背景などに比べると明らかにデフォルメがなされ写真的リアリズムに従って描かれている訳ではないキャラクターに関しても「実在感」が得られると述べている。「カメラレンズ的表現」が現実を撮った写真と同様の印象を与えるということは確かかもしれないが、そこから「キャラクターの実在感」が生じることまで直接説明するのは無理がある。だとするならば、「カメラレンズ的表現」と「キャラクターの実在感」の間の関係性についてさらなる分析が必要となるだろう。

以上で、本稿における最も重要な問題意識が明確になった。なぜ「カメラレンズ的表現」は、アニメのフィクション性を暴露してしまう可能性を孕んでいながら、アニメの「実在感」といったものを破壊するのではなく、むしろ高めると感じられているのだろうか。写真的リアリズムでは説明できそうにない、「カメラレンズ的表現」と「キャラクターの実在感」との関係性はどのようなものなのか。その二つの間の関係性は、一体どのような構造によって結ばれているのだろうか。

このような問題について分析することには、以下のような学術的意義があると考えられる。まず、本稿はあくまでアニメという形式に限った議論を展開するが、一方で「カメラレンズ的表現」に類する表現はマンガやイラスト、ゲームなどのキャラクターを表現するメディア全般でも見られるものである。従って、本稿の分析はキャラクター表現全体への理解にもつながりうるだろう。また、当然ながらレンズフレアなどの表現は実写の映画にも見られるものである。映画学者の渡邉大輔が指摘するように、現代の映像文化においてはアニメーションと実写映像との間の混淆とも言える事態が進行しており(渡邉 2022、284-286)、本稿の「カメラレンズ的表現」がアニメの中で一般的になっているのもその一環と言えるだろう。メディアそれぞれの固有性を離れて、それぞれの間の境界がなくなり混淆していく「ポストメディウム的状況」は現代の映像文化の一つの特徴としてしばしば指摘されるが、本稿の議論もそうした状況に対するものとして捉えることができ、映像文化全体を射程に捉えうる可能性を持っていると言えるだろう。

 本稿は以下のような構成をとる。第1章では、上記の問題設定に根本的に関わる重要な基本概念を整理する。第2章では「カメラレンズ的表現」が成立するために必要な前提として考えられる「映画的様式」について検討したのち、映画やカメラをアニメに導入する各種表現の分類を提示する。その中で「カメラレンズ的表現」が占める位置がわかると、その後の議論がより明晰になるだろう。第3章では、「カメラレンズ的表現」がアニメの語り(narration)に関わるものであることを示し、物語論を応用することによって「実在感」の理論的説明を試みる。そして第4章ではキャラクター表現論を導入し、それによって序論で提示した問題に直接回答する。

 

1. 基本概念の整理

1.1 「アニメ」

本題に入る前にまず、基本的な概念を整理したい。

ここまで説明せずに使ってきた「アニメ」というメディアについてある程度特徴づけを行いたい。アニメーションという表現形式は本来、粘土や人形を用いた作品や、抽象的な図形の動きで構成された作品など多様な表現を包含するものである。だが、今後の議論で扱うのは、その中でも特に日本国内で「アニメ」と呼ばれて制作・鑑賞されている、キャラクター表現としてのアニメーションである。アニメの表現形式としての特徴には、以下のような点が挙げられる。なお、本稿の目的からアニメの内容についての特徴は考慮する必要がないので、ここでは表現の形式に関わる特徴のみ列挙している。

 

(1)頭身の高さなど作品によって程度の違いはあるが、人物はデフォルメされた状態で描かれている。

(2)人物やそれに類するロボットなどのオブジェクトは線画で、またはセルルックに描かれる一方で、背景については水彩画のように線画がないか、あるいは目立たない形で描かれることが多い。

(3)ディズニーなどのフル・アニメーションと比較して、主に3コマ打ちや止め絵などを利用するリミテッド・アニメーションという手法でアニメートされる。

 

本稿では、広い意味でのアニメーションと区別し、このような表現上の特徴を持つ映像をアニメと呼称する。今後の「カメラレンズ的表現」についての議論の中でも、アニメのこれらの性質を前提とすることがあるだろう。

1.2 「美的イリュージョン」

 次に明らかにしておきたいのは、本稿の議論にとって最も重要となる「実在感」とは何かである。より正確に言えば、アニメで描かれるキャラクターに「実在感」があると言われる時、それは一体何を意味しているのだろうか。ここで重要なのは、アニメの特徴の中で確認したように、アニメのキャラクターはデフォルメされた、記号的な姿で描かれていることである。つまり、この「実在感」とは、被造物であることが受容者にとっても了解されているにもかかわらず、そこに何らかの現実と似た感覚を覚えていると言うことになる。

 このような意味での「実在感」とは、「美的イリュージョン[4]aesthetic illusion」のことを指していると考えられる。Wolf(2014)は、美的イリュージョンを、「多くの写実的なテキスト、人工物またはパフォーマンスを受容する際に頻繁に起こる、基本的に喜ばしい精神状態」[5]であり、「程度の違いはあるが、表象された世界のなかに想像的にも感情的にも没頭しているという感覚と、この世界を現実世界と(全く同一ではないが)似た方法で経験しているという感覚によって主として構成されている」[6](paragraph 1)としている。被造物としてのキャラクターに実在感を感じるという感覚は、この美的イリュージョンの一つとして考えることができるだろう。

この美的イリュージョンと同様の概念が、日本のキャラクター表現の文脈においても議論されている。伊藤(2014)が漫画の「リアリティ」を議論する際に用いた「現前性」である。

 

そもそも、リアリティ=「リアルであること」が問題にされるのは、どんな方法であれ「表現されたもの」の場合に限られる。(中略)さらにリアリティとは、「もっともらしさ」と「現前性」とに分けて考えることができる。作中世界の事件やものごとをいかにも「実際にありそうなこと」に感じさせるという意味での「もっともらしさ」と、作中世界を、あたかも自分の目の前で起きているように感じさせたり、作品世界の出来事がありそうかありそうでないかにかかわらず、作品世界そのものがあたかも「ある」かのように錯覚させることである「現前性」である。(伊藤 2014、113)

 

この文章の中で伊藤が「現前性」という言葉で指している内容は、美的イリュージョンと共通している。従って、伊藤の現前性に関する理論は、美的イリュージョンに関する種々の議論とともに応用することが可能であろう。

本稿では以後、これまで「実在感」「美的イリュージョン」「現前性」と様々な言葉で指示されていた概念について、「美的イリュージョン」という表現に統一する。この「美的イリュージョン」と「現前性」との間の互換性が、物語論と日本のキャラクター表現論との間をつなぐ媒介項となるだろう。

 

 2「カメラレンズ的表現」とは何か

2.1 「カメラレンズ的表現」の前提

 第2章では、そもそも「カメラレンズ的表現」とは何なのか、それはいかなる構造を有しているのかについて分析する。序論で述べたことの繰り返しになるが、本稿では「レンズを通して撮影する時に特有の現象を意図的にアニメにおいて再現する表現」を「カメラレンズ的表現」と定義している。具体的には、レンズフレアやレンズに付着した汚れの再現、色収差、(場合によっては)魚眼レンズなどの特殊なパースなどを想定している。

しかしながら、これらの表現技法が使用されているからといって、即座にそれがカメラレンズの存在を示す表現であると理解されるとは限らない。例えばレンズフレアが使用されていたとしても、それがレンズの内部構造に反射した光を模しているのではなく、実際に作品世界内に光源があるという解釈も取りうるはずである。それにもかかわらず、それらの表現を、レンズを意識した表現として受容する慣習が成立しているのならば、そこにはさらに、アニメを実写映画と同じような目線で見るという慣習があることが前提となっているのではないか。

 そこで、まず「カメラレンズ的表現」そのものについての議論に入る前に、この前提について考えていきたい。そしてその前提となっていると思われるのが、三輪健太郎が提唱する「映画的様式」である。

2.2 「映画的様式」

 アニメやマンガと実写映画とを比較する研究や批評はこれまでに数多くある。三輪は、マンガにおける映画との関係についての過去の議論の蓄積を概観し、それがメディウムの特性や、同一化技法のような特定の映画的(それもハリウッド映画を代表する特定の物語映画群を意識した)とされる技法に拘泥してきたと批判した。そして、メディウムや技法ではなく、具体的なスタイルに即して考えなければならないとし、重要なのは映画的技法とされるものが「映画的」と捉えられる「映画的様式」であると主張した(三輪 2014、109-174)。本稿の議論に即して考えるならば、「カメラレンズ的表現」がカメラレンズを表現しているように捉えられるのも、この「映画的様式」という慣習が存在するからだと考えることができるだろう。また、彼は初期アニメーションでは描かれたものはすべて、ただの線や点と等価の存在であり、いくらでも変形・消去が可能な存在であったことを指摘する(ibid. 202-203)。そして、種々の議論を検討した結果、「映画的様式」を空間的には「コマの中に描かれた光景が本来「インクのしみ」でしかないことを隠蔽し、そこに「仮想的なカメラ」によって捉えられた現実同様の「空間」を現出させるスタイル」(ibid. 218)であり、編集という面では「「仮想的なカメラ」によって(特定の時点における特定の視点からの)後継を切り取り、読者の視線を誘導することでそれらの光景を継起的に眺めさせる、というスタイル」(ibid. 283-284)と考えるに至る。この意味での「映画的様式」が現代のマンガやアニメでは様式として定着しており、その結果として「カメラレンズ的表現」が成り立っていると考えるべきなのである。

ここで確認しておきたいのが、「映画的様式」が必ずしも写実主義的な描写を要求するわけではないことである。写実主義的なアニメは定義上「映画的様式」にならざるを得ないが、逆は成り立たない。あくまで空間の描写方法が現実同様の「空間」を想起させるというだけであり、記号的な描写を用いても「映画的様式」にしたがったアニメを描くことは可能なはずである。

2.3 現象学的カメラ」とその構造的分類

 「映画的様式」について一通り確認したところで本来の議論に戻る。重要なのは、映画的様式の中で想定されている「仮想的なカメラ」と、「カメラレンズ的表現」がその存在を指し示していると思われる「カメラ」とは同一視できないことである。

三輪の「仮想的なカメラ」とは、アニメにおける空間が、3次元空間を光学的な法則に従って描写される際に設定される(ように見える)視点のことを指している。要するに、アニメにおける空間認識の法則性が問題とされている。一方で「カメラレンズ的表現」は、確かに「映画的様式」をその存在上の基盤としているが、定義上空間認識が光学的法則に従っているかどうかとは独立している。もちろん、両者の間には強い相関があり、実際には「仮想的なカメラ」が強く意識された作品において「カメラレンズ的表現」もよく用いられるかもしれないが、少なくとも理論上は別のものとして捉えることができるだろう。その違いは、画面に直接描き込まれる形でカメラが想起されるか、それとも空間把握のあり方という点でカメラが想起されるかという点に集約される。

このような違いがありながらも、両者の間には重要な共通点がある。それは、どちらも受容者側に「カメラがどうやらそこにあるらしい」という印象を抱かせることである。この曖昧としか言いようのない印象は、実はアニメに限らず、実写映画を対象とする映画理論においても重要なものとなっている。Pierson(2015)は、3Dアニメに関するカメラの動きについての研究をする中で、重要なのは実際にカメラがどのように使われているかではなく、我々が鑑賞する際にカメラがどのような動きをしていると感じられるかという現象学的な問題であると指摘し、映画のカメラについての過去の理論家たちの議論もまたその現象学的な問題を対象としているのだと指摘している(6–9)。Pierson自身がこのような言葉を使った訳ではないが、「我々がアニメを見ている時に、作品世界内にはないのにも関わらずそこにあると感じられるようなカメラ」を、彼の言葉遣いに倣って「現象学的カメラ」と呼びたい。「映画的様式」も「カメラレンズ的表現」も、いずれもこの「現象学的カメラ」を指示しているのである。

一方で、先ほど確認したように両者が指し示す「カメラ」には違いがあったはずである。つまり、「カメラレンズ的表現」が直接画面上に描き込まれるのに対し、「映画的様式」は画面の空間描写から想起されるものであるという相違点である。この違いに注目して「現象学的カメラ」を分類することができる。すなわち、「現象学的カメラ」のうち、画面に直接描き込まれる形で我々にその存在を示すものを「顕在的なカメラ」、画面に直接は現れないがその空間把握のあり方からその存在が我々に想起されるものを「潜在的なカメラ」とそれぞれ定義する。それぞれに「カメラレンズ的表現」と「映画的様式」が対応しており、「潜在的なカメラ」は「仮想的なカメラ」と同一視できる。ただし、「仮想的なカメラ」に比べて対比関係がわかりやすいことと、”virtual camera”が3DCGのレンダリングのフレームを決定するシステム上のカメラを指す言葉として定着しており混同を招く可能性があることから、今後は基本的に「潜在的なカメラ」を使用する。

このように分類することによって、「カメラレンズ的表現」と「映画的様式」という、非常に強く結びついていながらも繊細な違いを有する二つの概念を我々は明確に理解することが可能になるだろう。その理解が、これから先の議論の基盤となる。

なお、最後に言及しておかなければならないのは、作品世界内に存在しているカメラの映像がそのままアニメの画面で使われるPOVショットなどの事例である。例えば、登場人物が撮影する映像や監視カメラの映像が出てくる場合がそれに当たる。見かけ上は「顕在的なカメラ」とも非常によく似ているのだが、「現象学的カメラ」は定義上作品世界外にあるので、これらの事例は実はその中には含まないことになる。従って、このような事例を「現象学的カメラ」と区別して「作品世界内カメラ」とする。以上の分類の関係性を樹形図に起こしたのが図1である。

 

図1 アニメにおける「カメラ」の分類の概念図



以上で本稿が必要とする分類が完了した。それを図示すると図1のようになる。この分類によってようやく我々は、類似する映画的な演出などと混同することなく、何を指しているのかを明確に共有することができるだろう。

 

3 物語論

3.1 物語論

 ここまでの議論を踏まえた上で、次に導入するのが物語論である。その中でも特に、ジュネットに代表される、構造主義的に物語の構成要素を分析しようとする研究を参照する。彼らの理論やそれに続く物語論に共通する基礎的な特徴として、物語を物語言説と物語内容という二つの水準に分けて考えている点、そして物語を生産する行為を語りnarration[7]として分析の対象にしている点が挙げられる。言語学者の橋本の整理によれば、物語言説とは小説におけるテクストそのものであり、映画やマンガに敷衍した場合には映像や音声そのものを指す。物語内容は物語言説が意味する内容であり、両者の関係は言語学におけるシニフィアンシニフィエの関係に対応している。語りとは、語り手narratorが物語言説を作り出すことによって物語内容を伝えようとする行為に他ならない(橋本 2014、76–112)。

 ここで物語論を導入しようとした理由は、「現象学的カメラ」について語りという概念に即して考えることができるかもしれないからである。しかし、物語論を応用するにあたってはまず考えなければならないことがある。それは、映画やアニメにおいても語り手や語りという行為が存在すると考えることができるのかどうか、という問題である。

3.2 映画的語り手cinematic narratorについて

 映画に語り手を想定するのが適当かどうかという問題は常に議論されてきた。ジュネットも含め、基本的に物語論は文学理論から出発しており、その理論を他のメディアにも応用するには検討が必要となる。文学における語り手と同様の語り手は映画などの映像メディアにもあるといえるのだろうか。あるとしたらそれは文学の語り手と同一なのか、それとも何か相違点があるのだろうか。

Thomson-Jones(2009)は、映画的語り手についてのさまざまな議論を整理している。ここでいう映画的語り手とは、言葉によってではなく、映像や音声を通じて映画の中で起きる出来事を詳細に伝える潜在的な虚構的語り手implicit fictional narratorのことを指している。映画における潜在的な語り手とは何かという問題に、文学の語り手についての主要な説を適用しようとしても齟齬をきたすため、映画的語り手特有の性質を考えなければならない。もし映画的語り手の存在を示そうとするならば、映画の主要な様式が、物語の中にいるという感覚ではなく、物語の中での出来事を見ているという想像imagined seeingである必要がある。なぜならば、鑑賞者が物語の中にいると感覚している場合には媒介者としての語り手が必要ないが、物語の中の出来事を見ていると想像している場合には、我々に出来事を虚構的に示している(fictional showing)何者かがいると想像されなくてはならないからだ。実際のところ、どちらが映画の主要な様式であるのかについて定説は今のところないが、後者の説を採る場合の映画的語り手のあり方について考えることはできる。その場合の映画的語り手とは、写真と同等の即時性と正確性を備えたイメージを生み出す虚構的な媒介者、つまり’grand image-maker’となる。

このように、映画的語り手の存在の必要性を認めるか否かにはさまざまな見解があるが、一番重要な対立点は、映画の様式を「見ているという想像」だとする立場をとるのか否かである。本稿においては、映画的語り手が存在するという説を採用する。なぜならば、本稿が映画の物語論を応用するのはあくまで「カメラレンズ的表現」について明らかにするためであり、その表現が「顕在的なカメラ」を指し示す時点で、その映像を(実際にはどうであれ)あるカメラを通じて見ている感覚を呼び起こす、つまり「見ているという想像」を行わせていると考えることができるからである。また、アニメがそもそも描かれた絵であること、つまり被造性を前提とされていることからも、そこにfictional showingの存在を見てとることはできるだろう。したがって以下では、アニメ全体において語り手がいるという前提に立って議論を進める。

ただし、ここで注意しなければならないのは、アニメの語り手の全てが’grand image-maker’だと考えることはできないことである。Thomson-Jonesの整理した議論は実写映画に即したものに限定されており、アニメーションについては考えられていない。そのため、語り手は写真のような即時性と正確性を持つものとして考えられている。アニメについてもこの定義を持ち込むことは無理があるが、しかし「映画的様式」のアニメに限定すれば語り手を’grand image-maker’と同一視することもできる。

したがって以下では、正確性を期し混同を避けるため、アニメにおける語り手全般を「アニメ的語り手」、そのうち「映画的様式」のアニメにおける語り手を「擬似映画的語り手」とそれぞれ呼称する。前者はアニメにおいてfictional showingを行なっているとされる語り手全体を指し、後者はそのうち「映画的様式」のアニメにおける、カメラと同様に光学的法則に従い、即時性と正確性を持って映像を作り出すとみなすことにされている語り手である。ここで重要なのは、後者が映画的とされるのはあくまで擬似的なのであって、必ずしも正確に実写映画と同じような語り方を採用する必要がないということである。我々は、「擬似的映画的語り手」の語りを、カメラのようなものを使って行われているとみなしているに過ぎないのだと言うべきだろう。

3.3 メタナレーション

 「擬似映画的語り手」を第2章で整理したアニメのカメラについての分類に対応させるならば、「潜在的なカメラ」によって物語言説としての映像を作り出し、我々に物語内容を伝える語り手だと言える。つまり、包含関係から言って、「現象学的カメラ」は「擬似映画的語り手」の語りの基盤になっていると言えるだろう。だとするならば、「潜在的なカメラ」と共に「現象学的カメラ」を構成する「顕在的なカメラ」を指し示す「カメラレンズ的表現」は、「映画的様式」のアニメの語りの行為の一端を物語言説上において指し示していると言えるだろう。

このような、語りの行為そのものを指し示している物語言説上の表現を、Neumann& Nünning(2014)はメタフィクションと区別しメタナレーションmetanarrationとして定義している。

 

メタナレーションとメタフィクションは自己反省的な発話、つまり物語内容ではなく物語言説を指示するコメントを示す包括的な用語である。両者は関係性がありしばしば言い換えられる形で使われることもあるが、これらの用語は区別するべきである。メタナレーションは語りという行為や過程への語り手の反省を指示する一方、メタフィクションは物語の虚構性と/あるいは被造物性へのコメントと関わる。(Neumann&Nünning 2014,paragraph 1)[8]

 

この定義もまた文学の物語論を念頭に置いているのだが、我々はすでに先ほど映画的語り手とアニメにおける語りの存在を仮定した。したがって、このメタナレーションをアニメについても応用することは可能だろう。「カメラレンズ的表現」は、メタナレーションの一つとみなすことができる。

なぜあえてメタナレーションを導入して議論をしようとしているのか。本稿の主題は、「カメラレンズ的表現」と美的イリュージョンとの関係であった。そして、非常に重要なことに、メタナレーションと美的イリュージョンとの間にはある特殊な関係性があるようなのである。Nünningによれば、メタナレーションは語りという行為をあらわにすることによって物語としての美的イリュージョンを損なうことがある一方で、場合によってはむしろ美的イリュージョンを高めうるのだという。語り手の人格化された語りの声の存在を示すことによって、語りのリアリズムとでもいうべき新たな美的イリュージョンを得られると言うのである(Nünning 2005,17)。この理論は、「カメラレンズ的表現」による美的イリュージョンの構造を一見説明できるように思われる。

しかし、彼の理論をそのまま「カメラレンズ的表現」の場合にも適用することはできない。なぜならば、すでに述べたように、Nünningの理論は基本的に文学理論として読むべきであり、アニメに応用するのには慎重さが求められるからである。語り手の存在を仮定したからといって、いやむしろ文学の語り手と映画的語り手や「アニメ的語り手」との違いを確認してきたからこそ、安易に応用するべきではない。だが、それでもこのNünningの語りの美的イリュージョンというアイデア自体はアニメにおいても応用可能に思える。本稿では、彼が主張するメタナレーションによるイリュージョンという考え方がアニメに適用可能かどうかを一旦保留し、一方でその発想の元となる「語りにおける美的イリュージョン」がアニメにおいてどのような形で現れるのかを分析することとする。

 そのために有用となると思われるのが、伊藤剛の「キャラ」/「キャラクター」論である。

 

4. キャラクター表現論

4.1 「キャラ」と「キャラクター」

 マンガ研究者の伊藤剛は、マンガ表現に関するキャラクターという言葉についてより概念的に理解しやすくするために、「キャラ」と「キャラクター」の二つの次元に分けて考えることを提唱した。伊藤によるそれぞれの定義は以下のとおりである。「キャラ」とは、「多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの」であり、それに対して「「キャラクター」とは、「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの」と定義している(伊藤 2014、126)。

伊藤の定義はマンガ研究のためのものであるが、マンガとアニメが共に現代のキャラクター文化の一部を担っている点から、この「キャラ」と「キャラクター」の理論をアニメに応用することは可能であろう。

 伊藤による定義は非常に複合的な要因を孕むものであるが、そうした複雑さを割り切って簡潔に整理してしまうならば、「キャラ」は紙面や画面という物語言説の側にある存在で、「キャラクター」はその物語言説の指す物語内容において描かれる人格を指していると考えることができるであろう。いわば、それぞれ実写映画における俳優と登場人物の関係と類比的に考えることができる[9]

 また、第2章で行ったアニメにおけるカメラの分類に即していえば、「キャラクター」と同じ次元にあるのは「物語世界内カメラ」だけである。一方で、「現象学的カメラ」は「キャラ」と同一の次元に存在すると考えられる。比喩的な言い方をすれば、「現象学的カメラ」によって「キャラ」が撮影され生まれるのが「映画的様式」のマンガやアニメといった作品の物語言説と言えるだろう。

4.2 山田尚子のインタビューに見る「キャラ」/「キャラクター」

ここで改めて我々が目的としているのが何だったかについて最終確認をしたい。序論で引用した山田尚子のインタビューから見られるように、「カメラレンズ的表現」はどうやらキャラクターの実在感、美的イリュージョンを高めているようである。一見するとフィクション性を高めているように見えるこの表現がなぜ美的イリュージョンを高めるのかを分析するのがこれまでの目標であった。

しかし、伊藤の「キャラ」/「キャラクター」論を導入したことで改めて考えるべきことが一つ出現する。それは、ここで実在感が現れるとされるキャラクターとは、どちらの次元を指しているのかという問題である。

そこで、山田のインタビューの文面を再度確認すると、前半では「演出するうえでも「カメラで被写体に迫る」という感覚が強」いと述べている。これは、いかにして登場人物たちを画面に登場させるかという意味で、「キャラ」の次元について話していると考えられる。一方で後半では、「「絵空事のキャラクター」としてではなく、「この子はどう思っているのかな」「どんな景色が見えているんだろう?」そういった目線でキャラクターに接している」(沖本 2015)と発言している。これは、人格を持つ存在としての「キャラクター」に言及していると言える。そしてその両者が「カメラレンズ的表現」と関係していることになっている。

つまり、ここで我々が明らかにすべきなのは、「キャラ」と「キャラクター」双方の美的イリュージョンと「カメラレンズ的表現」の関係なのである。すると、どちらから分析を進めればいいのかを考えるべきだろう。

しかし、これは非常に明確に回答が出せる問題である。「カメラレンズ的表現」は「現象学的カメラ」を指し示すのだから、「キャラ」と同じ物語言説の次元に存在する。ならば、「カメラレンズ的表現」によって生み出される美的イリュージョンについて明らかにするには、この「キャラ」の持つ現前性/美的イリュージョンとの関係をまず分析することが必要だろう。

4.3 「カメラレンズ的表現」と「キャラ」

 

 まず分析するのは「キャラ」についてである。「キャラ」を「カメラレンズ的表現」を用いて描くことによって美的イリュージョンが生まれるとしたら、なぜか。ここでやはり重要となるのは、「カメラレンズ的表現」がメタナレーションとして指し示すのが「擬似的映画的語り手」の語りだということである。これは、2.2や3.2において指摘したように、実際にカメラを使って撮影したような写実性を備えているかとは独立に、カメラと同様の即時性と正確性を持って映像が作られているとみなされるという語りであると言える。先ほど確認したように、「キャラ」とは線画を基本とした記号的な描き方をされる図像そのものであり、被造物としての虚構性を必ず備えてしまう。だが、「擬似的映画的語り手」の語りによって示される画面は、即時性と正確性を持っているというふうにみなすことになっている。そのような語りの様式が、「映画的様式」によって成立していると考えられる。そして、その「擬似的映画的語り手」の存在をキャラと同次元に存在する「カメラレンズ的表現」が「顕在的なカメラ」を通じて指し示している。このことによって、結果として描かれている画面が写実主義的な方法で描かれているかとは独立に、「キャラ」の虚構性が隠蔽され、その美的イリュージョンが高められるのではないだろうか。

 「カメラレンズ的表現」が「キャラ」の美的イリュージョンを高める構造をこれで示すことができた。次にしなければならないのは、「カメラレンズ的表現」と「キャラクター」のイリュージョンの関係についてである。

 しかし、この関係については比較的簡単に考えられる。先述の通り「キャラクター」は「キャラ」の実在感を基盤として成立している。先ほどの論理で「キャラ」がその本来持つ虚構性を隠蔽された時、「キャラクター」の美的イリュージョンも同時に高まりうるのは自然である。当然、そのようにならない場合もあるかもしれないが、しかし一つの構造的回路として、「カメラレンズ的表現」によって虚構性が隠蔽され美的イリュージョンを高めた「キャラ」によって、より実在感のある「キャラクター」が描写できるようになるという流れは非常に明快であろう。

5. 結論

 ここまで、「カメラレンズ的表現」と呼ぶものとアニメにおける美的イリュージョンとの関係性を、物語表現としてのアニメの構造に注目することによって分析してきた。簡単に要約するならば、まずアニメについてカメラが想起される表現の中で「カメラレンズ的表現」と呼称した表現が置かれている地位を確認した。その上で、主に映画の物語論を導入し、また「カメラレンズ的表現」をメタナレーションとして見ることで、「語り」の美的イリュージョンという概念を考える可能性を開いた。そして、伊藤剛のキャラクター表現論を応用することで、「カメラレンズ的表現」が示す語りの様式が、「キャラ」の虚構性を隠蔽しイリュージョンを高めるように作用しているのだと結論づけた。また、「キャラ」のイリュージョンが高まることで自動的に、「キャラクター」のイリュージョンの方も高まりうることを示した。

 ここで行ってきた議論は、あるいは常識的なことをあえて迂遠な方法で言い直しているだけに見えるかもしれない。それはある意味では当然であり、現代のアニメがこのような様式を用いて物語を描いているということは、それが支配的な様式であるがために、普通意識されるものではない。しかしながら、先に述べたように、その意識されないでいる様式を明らかにしなければ、今現在のアニメ表現がどのようなものであるのかはわからない。本稿でアニメに語りの全てを明らかにしたとは言えないかもしれないが、しかしそのうちの一端を明らかにできたのではないだろうか。

 

引用文献

日本語文献

泉津井陽一 (2016) 「もっとアニメを知るための撮影講座 第6回 エフェクトを考える(2)」 WEBアニメスタイル、2016年3月15日、最終閲覧日:2022年1月2日、http://animestyle.jp/2016/03/15/9891/

伊藤剛(2014) 『テヅカ・イズ・デッド星海社星海社新書

沖本茂義 (2015)「「たまこラブストーリー山田尚子監督インタビュー 第18回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門新人賞受賞」、アニメ!アニメ!、2015年1月29日、最終閲覧日:2022年12月26日、https://animeanime.jp/article/2015/01/29/21773_2.html

小倉健太郎(2021) 「アニメはいかにレンズの効果を模倣してきたか」、メディア芸術カレントコンテンツ、2021年10月4日、最終閲覧日:2022年12月26日、             https://mediag.bunka.go.jp/article/article-18117/#check1.

橋本陽介 (2014) 『ナラトロジー入門』 水声社

三輪健太郎 (2014) 『マンガと映画-コマと時間の理論』 NTT出版

高瀬康司編 (2019) 『アニメ制作者たちの方法』 フィルムアート社

渡邉大輔 (2022) 『新映画論』 ゲンロン

外国語文献

Neumann, Birgit & Nünning, Ansgar. 2014. "Metanarration and Metafiction." The Living Handbook of Narratology, January 24, 2014. Accessed January 3, 2023. http://www.lhn.uni-hamburg.de/article/metanarration-and-metafiction.

Nünning, Ansgar. 2005. “On Metanarrative: Towards a Definition, a Typology and an Outline of the Functions of Metanarrative Commentary.” In The Dynamics of Narrative Form : Studies in Anglo-American Narratology. edited by John Pier. 11–57. Berlin: DeGruyter.

Pierson, Ryan. 2015. “Whole-Screen Metamorphosis and the Imagined Camera (Notes on Perspectival Movement in Animation).” Animation: an Interdisciplinary Journal. 10, no.1:6–21. https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/1746847715570812.

Thomson-Jones, Katherine. 2009. “Cinematic Narrators.” Philosophy Compass. 4, issue 2. (March 2009):296–311. https://doi.org/10.1111/j.1747-9991.2009.00204.x.

Wolf, Werner. 2004. “Aesthetic Illusion as an Effect of Fiction.” German Narratology II. 38, no. 3(Fall 2004): 325–350.https://www.jstor.org/stable/10.5325/style.38.3.325.

 

[1] アニメの制作の中で、動画素材をつなげて動かす、さまざまな特殊効果を入れるなどの工程は一般に撮影と呼ばれる。本稿では、アニメにおける撮影をカメラによる一般的な意味と区別するため、「撮影」とかっこ付きで表記する。

[2] 例えば小倉(2021) が、いかに現代のアニメにおいてレンズを意識した表現が多様な形で表れているかを示している。

[3] ここでいう物語世界とは作品内の登場人物らが存在するとされる世界全体を指しており、端的に言えば物語世界外にあるとは、登場人物が認識できないということである。

[4] Aesthetic illusionの定訳が無いため、本稿では暫定的に「美的イリュージョン」と訳した。

[5] [原文] “a basically pleasurable mental state that frequently emerges during the reception of many representational texts, artifacts or performances”

[6] [原文] ” Aesthetic illusion consists primarily of a feeling, with variable intensity, of being imaginatively and emotionally immersed in a represented world and of experiencing this world in a way similar (but not identical) to real life”

[7] 映画などでのボイスオーバーによる「語り」とは違う意味であることに注意しなければならない。

[8] [原文] ”Metanarration and metafiction are umbrella terms designating self-reflexive utterances, i.e. comments referring to the discourse rather than to the story. Although they are related and often used interchangeably, the terms should be distinguished: metanarration refers to the narrator’s reflections on the act or process of narration; metafiction concerns comments on the fictionality and/or constructedness of the narrative. ”

[9] 当然ながら現実にいる俳優と現実にはいない「キャラ」は全く同一視できない。ここで言っているのはあくまでアレゴリーである。