карандаш

京大文学部の修士課程。

国宝、あるいはかつて手に取ったバクマン。

ようやく映画『国宝』(李相日監督)を観に行った。三時間近い映画を映画館に観に行くのは『RRR』か『ドライブ・マイ・カー』以来だと思うが、レイトショーでも半分以上の席が埋まっていて、大ヒットしているのだなあ、という感慨。おそらく複数回見に来ている層もそれなりにいたはずである。

昭和中期、長崎のやくざの家に生まれ、目の前で父親が殺された吉沢亮は歌舞伎役者に見出され大阪に行き、役者としての修業を受ける。師匠の息子である横浜流星とは親友でありながらも、血筋をもつ彼と芸に優れる主人公という対比の中で愛憎を交わし、時には横浜流星が歌舞伎の本道から外れドサ周りに堕ち、そちらがメインストリームに再び出るとともに吉沢亮も同様に堕ちていく。最終的に歌舞伎の世界に戻れた吉沢亮横浜流星とともに歌舞伎役者として大成し、ライバルの死後人間国宝になるーー

二人の関係に注目した時、おおむねこうした筋の物語になっている。その一方で芸道に邁進するために「切り捨てる」ことについてのテーマもあり、いわゆる「芸道もの」としての王道展開なのだろう(その点についてはこの記事が詳しい)。道を究める者の美しさと周りを巻き込む・切り捨てる残酷さを現代的な視点で描こうとした、と言えるだろう(脚本として成功しているかはわからないが)。また、雪景色や曽根崎心中のお初の印象的なシーンでの視覚的な演出など、映画としての技巧部分にも目を見張るものがある。少々過剰演出に見える点もあるが、3時間の商業映画として必要なのかもしれない。あまりに早すぎる展開や分かりやすい脚本にはいわゆる「ドーパミン中毒の若者向けのーー」構文を想起させないでもない。

 

しかし、この映画全体として、主人公の吉沢亮もライバルの横浜流星も、具体的にどう精神的に成長したのかわからない、というのが正直な感想である。どちらもドサ回りで臥薪嘗胆の時期を経たとはいえ、だからどう芸がよくなったというのもわからないし、精神的な変化があったようにも思えない。それこそ主人公は隠し子が大人になるまで放置していたわけである(忘れたことはない、とほざいてはいるが)。

ここで思い出したのが、漫画『バクマン。』(原作・大場つぐみ 作画・小畑健)についてある先輩が言っていた、「結局サイコーもシュージンもなにも成長してなくて、その時々の問題を場当たり的に解決してるだけ」という言葉だ。ジャンプで漫画家として成功するために主人公二人が精進する物語で、現代的な「芸道もの」の一つと言えるだろう。彼らも確かに絵や話の技術を向上させはするが、精神的な変化、人となりの変化が作中であまり見えないというのが上記の言葉の意味である。何らかの問題が起き、二人やその周辺との葛藤もあり、それを乗り越えて前に進むというわかりやすい話の構造ではあるが、結局それを繰り返して螺旋階段のようになんとなく漫画家として上に行くのを繰り返すのに終始する。最初はお高く留まったエリートっぽい感じだった蒼樹紅が、泥臭い漫画家になっていく過程のほうがよっぽど成長譚である。

実は『バクマン。』は子供のころに初めて買ってもらった漫画単行本で、今でも好きな漫画である。なので思い入れもあるのだが、しかし『国宝』と同様にただひたすら前を目指すだけの物語と言えなくもない。また共通するのが、社会の変化などに比較的無頓着という点である。『国宝』では全体で半世紀近くたっているのに、歌舞伎を取り巻く社会や経済は何も見えてこない。『バクマン。』も進学や就職など当初は個人的ではあるが社会的なことに言及しているが、途中からはほとんど見えてこない(次第に時系列的に未来を描くことになったのもあるだろうが)。

最近読んだ三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』では、労働に生活すべてをかけるという新自由主義的価値観の内面化が読書の忌避を引き起こすと論じ、全身で働くのではなく「半身」で働くべきという提言をしていた。その中で、昭和的な、家事や育児を配偶者らに押し付けることで実現する全身での働き方はやめるべきという話をしていたが、『国宝』や『バクマン。』の彼らも同じ轍を踏んでいるように見える。それこそサイコーが第1話で結んだ「アニメ化して声優として主演するまで会わない」という婚約はその象徴だろう。黒沢清は「普通のサラリーマンのように働きながら映画を作るしか映画の未来はない」と言ったが、芸道だろうが漫画道だろうが一つの労働であるわけで、こうした生き方を描く作品を我々はどう見るべきか。『国宝』作中の人物のように「ああいう風には生きられないな」と無責任に他者化するのか、そのように生きるべきと邁進するか、もうやめようよと嘆息するか、どうすべきだろうか。