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京大文学部の修士課程。

『漫画映画論』雑記②ー日本文化としてのアニメ研究ー

昨日書いた記事とは別の論点について、今村太平の『漫画映画論』*1を見てみたい。今回見ていきたいのが、最後の章である「日本芸術と漫画」(旧版では「漫画映画と日本芸術」)である。タイトルからわかるようにこの章は日本の芸術とアニメーションとのつながりを挙げていくもので、同様の論は高畑の「12世紀のアニメーション」論(「語り絵」論)をはじめとして連綿と続いている。『アニメ・マシーン』でトーマス・ラマールはアニメについての研究が「日本人論」になる傾向を指摘しているが、そうしたものの一つとみることもできるだろう。その内容を大雑把にまとめれば、「アニメ(マンガ/ゲーム/その他もろもろ)は根底に日本文化の血脈を引く文化実践である。日本人的なものがその魅力の原点にあるのだ」といった感じだろうか。

こうした「日本人論」は実際のところ問題含みである。まず、両者の間の影響関係をいかに論証するのか。黒澤明が能を参考に『蜘蛛巣城』のワンシーンを撮ったとか、小津安二郎が女優を能の舞台に連れて行ったというような作家論の単位*2、あるいは批評や感想の範囲*3ならともかく、研究としては大上段に構えすぎて扱いづらい。単に両者が似ているというだけでは、なんだってそういえてしまう部分がある。そもそも、日本芸術とアニメが似ているなら中国韓国ベトナムその他漢字圏の国の文化も(西洋に比べれば)似ているわけだし、アニメが世界中に広がっている今になって日本特有の文化と叫ぶのも空々しいところがある。

また、こうした論にはすでに「高尚」とされた「芸術」に接続させることで大衆文化としてのアニメなどを「高いもの」にしたい、という屈折した欲求がある、というのはさすがに邪推だろうか。

 

さて、ここまで書いていてなんだが、実は今村の本はそうした批判に適しないのでは、というのが私の読んだ上での持論である。それはこの本が出版されたのが1941年という時代的事情に起因する。

今村の議論を乱暴ながら短くまとめると、アメリカで発展した漫画映画は必ず世界中に広がる。そして各国で各国なりの発展をするはずだから、日本では日本なりの発展が待っているはずである。その未来を予想する下敷きとして、日本芸術ー特に絵巻ーに着目したい。絵巻、絵画、音楽(謡や長唄)、演劇(文楽、能、歌舞伎など)はそれぞれ時間性、物語性といった特徴が見られ、「あらゆる芸術の混合であったところの原始芸術の性質を残存している」(一七三)。漫画映画も同様に総合芸術性を有しているのだから、「我が国における漫画映画の製作は、我が国の芸術に伝統として残されているところの原始的な総合性を研究することから、多大の示唆を得ることができる」(同)と結ぶ。

「原始」といった言葉遣い、あるいは日本芸術の特徴の恣意的に見える記述はともかくとして、内容的には上で挙げた批判ができるように見える。しかしここで重要なのは、あくまで今村は当時のアメリカ(ディズニー)の漫画映画と日本芸術の類似性を指摘しているのであって、日本のアニメではないことである。そして、今後の日本のアニメのヒントが、漫画映画と似た性質をもつ日本芸術の研究にある、という一種のエールを製作者に送っているのである。初版の時点では、日本製の漫画映画はさまざまに作られていたが、まだ長編を制作するには至らず、大規模な上映などもされていない。実際今村は改訂版のあとがきで、「漫画映画は記録映画とともに文字どおりの日陰者であった」(15)と述懐している。そのような状況で、いつか来るであろう漫画映画の最盛期にむけて書かれたのが本章である。

こうして考えると、すでにあるアニメやマンガといった実践に日本芸術との共通性を見出す論とは事情が違うのがわかる。今村にとっては、漫画映画と日本芸術が似ていることを指摘できればそれでよかったのである。そうした文化史を受け継いだ漫画映画が作られることを期待していたからこそ、『鉄腕アトム』の放送や漫画映画の人気を言祝いでいる(16-17)のだ。

誤解されそうだが、この章が全く批判する必要がない、と言いたいわけではない。だが、特に現代の研究者が、日本の伝統芸能とアニメマンガを安易に結びつけるのと同じ誤謬を今村が犯していたわけではない、というのがこの記事の言いたかったことである。

 

*1:書誌情報などについては既出の記事の方を参照してほしい

*2:高畑のアニメーション論もそういった形で検証できるだろう。

*3:さらば青春の光に「能みたいな話」という漫才があるが、例えばそんな感じ。