карандаш

京大文学部の修士課程。

Kunitake(2025):NENENENE氏の「女子枠」批判論文

Kunitake, Yuto. ”Affirmative action in Japanese higher education: A critical examination of DEI implementation” Social Sciences & Humanities Open 

Affirmative action in Japanese higher education: A critical examination of DEI implementation - ScienceDirect

日本語の史料ばかり集めて読む作業をし続けていて、最近英文を読めてないなあ、ちゃんと読まないとなあと思っているところ、ふと前に「読んでください」と強く言われていたものがあったと思い出し、読んでみたので軽いまとめと感想を。やはり日本人の書いた英文は読みやすいね(後半だるくなってAIを使ったりしたが)

 

内容

アメリカでは人種をもとにした大学入試におけるDEI政策が批判され、最高裁違憲判決が出た。

・こうした状況にもかかわらず、日本ではアファーマティブ・アクション(AA)が推進されている。

・人種的に均一な社会である日本では主に女性推進の文脈でDEIと言われる

・欧米で発展したDEIが日本ではいかに再解釈され、だれを受益者としているのか、大学入試と研究者の採用に限って比較検討する

・方法としては、文献レビューと統計を用いる。

 

文献レビュー

・日本の大学のDEIは基本的に多様性(D)を中心としてきた。そして06年以降、ほぼ女性活躍と結びつけられ、その文脈のまま今に至っている。

・「女子枠」は、文科省の思惑の元急速に広がりつつある。大抵より簡単なテストかテストなしで受けられる。これは女子学生に「簡単なテストで受かった」というスティグマを与えかねない。

アメリカや欧州では違法とされる枠制度が日本では海外を頼りに行われている。

・また、男女雇用機会均等法をもとに、研究者の採用の中では女性のみの採用が拡大している。

 

統計分析*1

・進学率では地域格差が大きく見られた。

・男<女という高等教育進学率、男性の方がジェンダーに基づく進学についての干渉(勧め、制限)をうけている、経済状況による進学状況の変化(私学を避け、地元を選ぶ傾向)が見られる。

・にもかかわらず女性に偏っているDEI政策は「選択的適用」の問題がある。

 

まとめ

・女性の方が高等教育進学率が高い現実を無視できない

・STEMに女性が少ないのは自由な選択の結果だ

・看護・保育という女性が圧倒的な分野にも(にこそ?)DEIを導入すべき

・女性採用により男性ポスドクの研究者が路頭に迷う危険

 

・実体のない「国際」の名のもとにDEIを女性に限定して枠を設けるという極端な政策をとるのはおかしい

・結果として男性こそ不平等を受けているという感覚がZ世代にはある。

・日本でのDEI政策は政策的・統計的検証を絶えず受けなければならない。

(要点だけまとめたつもりなのでところどころ端折っている)

検討

まず立場を明らかにすると、私自身は現状の女子枠を必要悪だと考えている。別に在籍する人をうんぬんするわけではないが、理学部や工学部の男性率は正直異常で、その社会的重要性を鑑みて改善は必要だと思う。さらに言えばーーこれは地方格差や経済格差にもかかわるがーー日本の入試の点数重視・ペーパーテスト重視は異常であり、wakatteTVのような怪物を生み、学問観や大学観に悪影響だという視点からも、「簡単なテストで受かりやがって」のような批判には反論したくなる*2。そもそも人口が減っている状況でテストの難易度でマウントをとることに意味があるのだろうか、それこそその点で平等を主張する者たちは世代間格差をどう感じているのか。

 

さて、一通り読んだ上で、女性活躍にDEIが限定して使われがちという論点や、地域格差経済格差への支援の方がより必要なのではという論点についてはうなづけるところがある。また、明言せずに総合入試などで女子を優遇する大学も卑怯だと思うし、しっかり明言すべきだと思う。実際、女子枠が急速に広がる背景には文科省の強い意向があるのは明かで、大学の独立性といった問題からもどうかと思うところがある。また、研究者の就職に関する問題は一般的に非常に深刻で、早急にどうにかするべきだろう。

 

一方で気になった点も多々ある。

大きく気になった点

・「人種的に均一な社会」である日本ではDEIや多様性が女性問題に限定されていると指摘するが、例えば90年代までは朝鮮学校の生徒が大学を受けるのに大きな障害があったことに批判が集まり、紆余曲折を経て現在ではほぼ解消されているといった事実がある*3アメリカなどと比べると比較的ないが、人種民族問題は日本にも厳然と存在し、かつ大学政策にも影響してきたことは無視できない。こうした事例は今日的なDEIの一環ではないだろうか。

・関連して、DEIと言われていないだけで(あるいはそれが言葉として「流行」するのと女性活躍の「流行」がかぶっているだけで)、実質多様性のための政策というのは多々行われてきているはずである。例えば文科省の進めた70年前後の学生寮の整備などは地方学生のためのものだった*4し、より広く言えば義務教育の教科書の無償化もそうだろう。言葉としての「多様性」「DEI」と実体としてどういうことが行われてきたかは分けるべきである*5。DEIという言葉と海外における用法との違いに拘泥するが、果たしてそれで正確に実態がつかめるのだろうか。

・高等教育進学率の男女比に言及しているが、その内実をより詳しく見ると、大学の学部では女性の割合が約44%であり、男性の方が多い。一方、短大では女性が約87%*6と圧倒的で、専門学校も約58%となっている。高等教育の中でのこうした勾配について等閑視するのはどうなのか。また、短大ではそれこそ保育・看護が多いと思われるが、それらの仕事(エッセンシャルワークとも呼ばれる)の社会的地位・経済的状況などの国立大学の理系学部出身者との差を無視して「真のDEI」のようなものを語るのは無理があるのではないか。

・男性の方が干渉を受けているという話について、まず干渉の中身について精査しなくてはいけないはずである。もっといい大学行け!(勧め)と教育なんかいらん(制限)では話が全く違うのに、その割合だけで語れない。また、直接の干渉がないから「自由な選択の結果女性が少ない」となるだろうか?社会的状況や環境の差は直接の干渉によってのみ現れるのだろうか?

・研究職の女性のみ採用については私もあまりよく思わないが、そもそもDEIを推進するなら研究職のパイを増やすのが先決だという立場である。交付金の削減など研究者の立場を危うくする諸政策に言及せず、女性のみ採用に怒りを向けるのは不適当だ。

・Z世代の男性が「男こそ不平等を受けている」と感じ始めているからこうした政策は良くないとはならない。それこそナチス時代のドイツ国民と同じではないか。

 

ちっちゃい気になったこと

・論文中で女子枠を文字通りに訳すと”quotas for girls”としているが、この場合の女子は女性とほぼ同じ意味でfemaleと訳すべきだろう。おそらく日本語の女子が示す範囲よりgirlは年齢が低いイメージだと思われる*7

・詳しくないので知りたいという意味も込めて。枠制度の存在を日本だけだと批判するが、そもそも日本の国立大の、定員を定めて試験ですぱっと切るという入試制度そのものが世界的に見て特異であり、その結果として特異なDEI施策が出来上がっているという可能性はないのか。それこそ日本の文脈にのせたDEIとして必然的にそうなっているとしたら欧米での違法性と比べることの正当性が保てなくなるのではないか。

 

以上。久々に批判的に英語を読むいい訓練になりました。

*1:統計には詳しくないので方法については触れず、結論部だけ紹介する。餅は餅屋。

*2:自分自身が、内申点や推薦とは縁がない人間で、テスト型入試だからこそ今の大学に来れていることを踏まえても。

*3:朝鮮学校と大学受験資格 – とんぽらいふ – 在日同胞のための生活便利帳

*4:その理想を今でも掲げているのが今も残る各自治寮だろう。

*5:一方、こうした施策はたいてい文科省発信というより民間の運動発だったりするが。

*6:ダイアンのユースケが「男やのに短大行った」を持ちネタにしているのを思い出す。

*7:参考:girl | ロングマン現代英英辞典でのgirlの意味 | LDOCE

『漫画映画論』雑記②ー日本文化としてのアニメ研究ー

昨日書いた記事とは別の論点について、今村太平の『漫画映画論』*1を見てみたい。今回見ていきたいのが、最後の章である「日本芸術と漫画」(旧版では「漫画映画と日本芸術」)である。タイトルからわかるようにこの章は日本の芸術とアニメーションとのつながりを挙げていくもので、同様の論は高畑の「12世紀のアニメーション」論(「語り絵」論)をはじめとして連綿と続いている。『アニメ・マシーン』でトーマス・ラマールはアニメについての研究が「日本人論」になる傾向を指摘しているが、そうしたものの一つとみることもできるだろう。その内容を大雑把にまとめれば、「アニメ(マンガ/ゲーム/その他もろもろ)は根底に日本文化の血脈を引く文化実践である。日本人的なものがその魅力の原点にあるのだ」といった感じだろうか。

こうした「日本人論」は実際のところ問題含みである。まず、両者の間の影響関係をいかに論証するのか。黒澤明が能を参考に『蜘蛛巣城』のワンシーンを撮ったとか、小津安二郎が女優を能の舞台に連れて行ったというような作家論の単位*2、あるいは批評や感想の範囲*3ならともかく、研究としては大上段に構えすぎて扱いづらい。単に両者が似ているというだけでは、なんだってそういえてしまう部分がある。そもそも、日本芸術とアニメが似ているなら中国韓国ベトナムその他漢字圏の国の文化も(西洋に比べれば)似ているわけだし、アニメが世界中に広がっている今になって日本特有の文化と叫ぶのも空々しいところがある。

また、こうした論にはすでに「高尚」とされた「芸術」に接続させることで大衆文化としてのアニメなどを「高いもの」にしたい、という屈折した欲求がある、というのはさすがに邪推だろうか。

 

さて、ここまで書いていてなんだが、実は今村の本はそうした批判に適しないのでは、というのが私の読んだ上での持論である。それはこの本が出版されたのが1941年という時代的事情に起因する。

今村の議論を乱暴ながら短くまとめると、アメリカで発展した漫画映画は必ず世界中に広がる。そして各国で各国なりの発展をするはずだから、日本では日本なりの発展が待っているはずである。その未来を予想する下敷きとして、日本芸術ー特に絵巻ーに着目したい。絵巻、絵画、音楽(謡や長唄)、演劇(文楽、能、歌舞伎など)はそれぞれ時間性、物語性といった特徴が見られ、「あらゆる芸術の混合であったところの原始芸術の性質を残存している」(一七三)。漫画映画も同様に総合芸術性を有しているのだから、「我が国における漫画映画の製作は、我が国の芸術に伝統として残されているところの原始的な総合性を研究することから、多大の示唆を得ることができる」(同)と結ぶ。

「原始」といった言葉遣い、あるいは日本芸術の特徴の恣意的に見える記述はともかくとして、内容的には上で挙げた批判ができるように見える。しかしここで重要なのは、あくまで今村は当時のアメリカ(ディズニー)の漫画映画と日本芸術の類似性を指摘しているのであって、日本のアニメではないことである。そして、今後の日本のアニメのヒントが、漫画映画と似た性質をもつ日本芸術の研究にある、という一種のエールを製作者に送っているのである。初版の時点では、日本製の漫画映画はさまざまに作られていたが、まだ長編を制作するには至らず、大規模な上映などもされていない。実際今村は改訂版のあとがきで、「漫画映画は記録映画とともに文字どおりの日陰者であった」(15)と述懐している。そのような状況で、いつか来るであろう漫画映画の最盛期にむけて書かれたのが本章である。

こうして考えると、すでにあるアニメやマンガといった実践に日本芸術との共通性を見出す論とは事情が違うのがわかる。今村にとっては、漫画映画と日本芸術が似ていることを指摘できればそれでよかったのである。そうした文化史を受け継いだ漫画映画が作られることを期待していたからこそ、『鉄腕アトム』の放送や漫画映画の人気を言祝いでいる(16-17)のだ。

誤解されそうだが、この章が全く批判する必要がない、と言いたいわけではない。だが、特に現代の研究者が、日本の伝統芸能とアニメマンガを安易に結びつけるのと同じ誤謬を今村が犯していたわけではない、というのがこの記事の言いたかったことである。

 

*1:書誌情報などについては既出の記事の方を参照してほしい

*2:高畑のアニメーション論もそういった形で検証できるだろう。

*3:さらば青春の光に「能みたいな話」という漫才があるが、例えばそんな感じ。

『漫画映画論』雑記①ー今村にとってアニメートとは何かー

果たして今村太平はアニメーションを愛していたのだろうか。そんな疑問がわくほど、残念なことに、今村にはアニメーターの創造的な役割がまったく想像も理解もできていなかったーー高畑勲

 

今村太平の『漫画映画論』(1941年)を読書会で読んだ。国会図書館のデータベースで初版が読めるので、基本的にそちらを参照したが、同時にジブリLibrary版(2005年)*1も確認した。この本では前書きでも高畑による後書きにも、今村によるアニメートあるいはアニメーションという仕事の理解の不正確さが指摘されている(冒頭に引用したのもその一文である)。確かに、読んでいくとそう思える箇所も多々あるのだが、高畑が強烈に批判するほど今村にはアニメーターの役割を理解していなかったのだろうか?読書会での議論も踏まえて少し考えてみたい。

なお、本記事では1941年版からの引用は漢数字、2005年版からの引用は英数字でページ数を示す*2

今村太平の「アニメート」観

今村の実際の記述を軽く振り返りたい。

まず今村は、マニファクチュアの時代に絵画を動かしたいという欲求が生まれ、幻燈のような「動く絵」として現れたと論ずる。そして、機械工業の時代に写真/映画が誕生し動きの再現は可能になったが、それでも「動く絵」への原始的欲求は絶えない。そこで生まれたのが漫画映画である。しかし、漫画映画は動く絵の継承者ではなく、動く絵の止揚であり、マニファクチュア的方法の否定である。すなわち、それまでの動く絵が画家の主観的な、仮定としての動きを再現したのに対し、マイブリッジの連続写真などを利用した漫画映画は「真実の運動を含んでいる」(31)。絵(マニファクチュア)と写真(機械)という二つの技術の、お互いを否定し合う完全な結合の上に漫画映画は存在する。アニメーティングは、「ある動きを一度写真で分解し、それを絵に書きかえる仕事」(同)であり、それは多人数による手作業で作られる点でマニファクチュアであるが、しかしまた「一面マニファクチュアの否定」(33)であって、今はまだ過渡期である。

以上が「Moving Picture」での今村のアニメートに関する議論である。一方、初版ではこの章は「漫画映画以前」と題されているのだが、少し記述が異なる。「動く絵」に関する議論や、マニファクチュア/機械という図式は同様だが、アニメートに関しては「今の漫画映画は動きの写真である」(十四)とし、「アニメーティングとは動きの忠実な再現である」(十七)と述べている。また、マニファクチュア的な労働の分割と結合(分業制)が、写真による運動の分割と絵による結合という形で漫画映画にも現れている。05年版に比べると、アニメーティングとはただ写しているだけだという印象を与える記述になっている。

この章だけではなく、全体的に増補改訂版の方がマルクス主義的な要素がより色濃い印象がある。今村自身は戦前に左翼主義運動に参加し検挙された経験もある人物であるが、なぜ改訂版で顕著になっているのかはわからない*3

いずれにせよ重要なのは、今村が漫画映画に見出しているのは主観的な絵ではなく機械による運動の再現という側面であり、「過渡期」という表現からは最終的に機械によって作られる漫画映画という未来を幻視していることが窺える。

高畑による批判とその検証

こうした考え方を、高畑はディズニーの偉業を「「写真(映画)による分解」と「絵への書きかえ」という機械工業的な技術と分業化に矮小化してしまった」(267)と批判し、「問題は、一旦実写で撮ってどうするか、ではなくて、日頃から現実の動きを作り手が観察・把握・分析し、それを基礎に、ビリーヴァビリティのある(信じることのできる)動きを想像的に生み出せるかどうかなのだ」(269)と指摘する。これ自体は高畑のアニメーション観として興味深いが、今村への批判としては妥当だろうか?つまり、今村は本当にアニメーターの仕事を「矮小化」しているのか?

ここで問題となるのは、今村のいう「絵への書きかえ」というのがどういうものを想定していると考えられるか、である。おそらく高畑はこれをロトスコープのようなイメージで読んでいるのではないか。実際、ディズニーは実写映像を用いて『白雪姫』以降の作品を作っており、ロトスコープ技術の活用として知られるが、今村の言いたいのはこういうことなのだろうか。

実は今村がこの「書きかえ」の中身をより具体的に書いている部分がある。「漫画映画と絵画」という章の中で、彼は漫画映画の制作で最も重要な仕事をアニメーティングと述べ、「例えば『忠犬の赤毛布』の酔っぱらうネズミは、人間の酩酊状態の変形である。それは酔った人間を撮影し一コマ一コマをネズミに書きかえたものに違いない」(91)とする。つまり、彼はただなぞることを持って「書きかえ」としているわけではない。人間的な動きの再現のために写真を使い動きを分析した上で、「あのようなリアルな動き」(92)を生み出すことをアニメーティングだとしている。

要するに、今村は単に写真を使って動きを作ることがアニメーターの仕事とはしていない。写真(映画)による動きの機械的合理的分析を利用した、客観的な「リアルな」動きの形成を漫画映画の胆と考えているのだろう。そうした仕事を「止揚」として表現しているだとすれば、高畑の言いたいことと実はそんなに違いはないように見受けられる。あるとしたら、同じ事態の両面のどちらから見るか、といった違いではないだろうか。その見方の違いこそが高畑にとっては何よりも肝要であり、強烈な批判に導いたのかもしれないが……

もちろん、今村の理論はマルクス主義の色彩を帯びた、発展史観と弁証法唯物論の影響の色濃いものであることは言うまでもない。そして全体的に独断的、恣意的な部分があるのも確かだ。そうした見方が、近代の産物である漫画映画を手工業と機械工業の側面から分析し、さらに後者の重要性を強調させた。また単純にアニメーターの仕事についての知識がおぼつかない箇所が散見されるのは事実である。

だが、「アニメーターの創造的な役割がまったく想像も理解もできていな」いとまで批判されるほどか、と言う気がしてくる、と言うのが今の私なりの結論である。

 

今村太平. 1941.『漫画映画論』. 第一文芸者.  https://dl.ndl.go.jp/pid/1871732

 

 

今村太平. 2005. 『ジブリLibrary 漫画映画論』. 徳間書店.

*1:さらにこの本の底本は1992年の岩波書店版で、岩波は1965年に今村が増補改定した版を元にしている。

*2:前者でもページ数は英数字表記だが、便利のため。

*3:考えられるとすれば、初版の太平洋戦争直前の1941年という時代背景だろうか

アニメ文化とギャンブル

(所属するサークルの会誌に書いた原稿です。厳密性や先行研究の吟味は大目にみてください。)

 

モンキーターン』、『ウマ娘』、『リンカイ!』。これらの作品に共通するものは何か。そう、いずれも日本の公営競技、つまり賭博として運営されている競艇、競馬、競輪をテーマとしたアニメ作品である*1。『モンキー』はともかく、後者二つはいわゆるオタク向け作品として制作され、スポ魂と萌えの融合のような作風で(少なくとも片方は)人気を博している。その特徴として、ギャンブルとしての側面が基本的にそぎ落とされ、あくまで「スポーツ」として各競技が描かれていることだろう。あたかも、アニメとギャンブルは水と油かのようである。 

しかし、現実にはアニメ「そのもの」がギャンブルによって支えられているというのが否定しがたい事実となっている。そのギャンブルとはずばり、パチンコだ。おそらくやったことがあろうがなかろうが、ある程度アニメ好きな人ならば、大量のアニメがパチンコとタイアップしている現状をご存じだろう。試しに筆者が最新の機種を数えてみると、100台中67台がアニメ(マンガ含む)とのタイアップだった。そして、パチンコ産業の巨大な市場が、アニメ製作委員会に巨額のライセンス料を支払うという形でアニメ業界にお金を回し、新たなアニメ制作の一助となっているという構造が、そこにはたしかにある。アニメの内容ではなく、その業界構造という側面においてギャンブルは大きな役割を果たしている(果たしてしまっている)と言える。ここでは、パチンコ/ギャンブルとアニメの関係の歴史や、その文化的功罪に焦点を当ててみたいと思う。

本題に入る前に軽くパチンコの前史に触れておく。もともと、パチンコはシンプルに一つ一つ球を打ち出し、釘にぶつかりながら右往左往しつつ落ちていったのち、特定の穴に入った場合にたくさん球が出てくるというゲームだった。ピンボールのようなものと思えばわかりやすいかもしれない。したがって、運の要素は強いがある程度「コツ」があり、人の技術によって獲得する「出玉」が左右される部分があったのである。当初、ゲーセンと同じくうまくいったらタバコといった景品がもらえるというだけだったのだが、あまり良くない人たち(婉曲)がそれを定価以下で購入し、定価で店に売ることで利ザヤを得るのが横行すると事実上「ギャンブル」となり、警察はそれを取り締まる代わりに、警察が認めるルートにて同様のことをしても見逃す、という悪名高い「三店方式」がとられるようになった。今でも、警察はパチンコ屋で賭博が行われているという話は聞いたことがないそうである。(余談だが、日本の影響でかつて韓国・台湾で三店方式が行われていたが現在は禁止されている。)
さて、そんなパチンコは、昭和のころまでは、いわゆる「羽根もの」という穴に入るまでのルートを様々なギミックで複雑にしたという変化はあったが、特定の穴を目指すゲーム性は同様だった。だが、平成に入るころから多様なゲーム性を示し始める。昭和後期にはスロットのように数字が中央で回転し、三つそろうと大当たりになりそれまで以上の獲得が可能になる「デジパチ」が登場する。その後、90年代に入ると液晶モニターを用いて演出を増やし、絵や数字がそろうパターンを増やしたものが現れる。バブルの空気の中で、こうした機種がメインとなり、球を穴に入れる時ではなく、入った後の方にゲーム的にも演出的にも重点が置かれるようになる。こうなるともはや、打ち手の技術はほぼ関係なくなってしまった。
そして、このころから各種エンタメとのタイアップが増えていく。その理由として、一つには液晶モニターの導入により映像による演出が可能になったという技術的側面があげられる。そしてゲーム性の観点では、数字や絵柄がそろうかどうかという部分での演出の多様性を確保することによって、技術の重要性が減じた分の面白さを補おうとする部分もあっただろう。新たに様々な映像を作るより、すでにあるコンテンツを使う方がつくるのが楽なのだ。
そうして広まったタイアップだが、最初のころは多様なコンテンツが採用されていた。例えば『トップガン』のようなハリウッド映画、『大工の源さん』のようなゲーム、『必殺仕事人』のようなドラマ、『華観月』のような曲…といった具合である。その中には当然アニメマンガも含まれる。サミー、KYORAKU、藤商事、SANKYO、山佐といった比較的大きい会社の歴代機種の中で調べたうちで早かったものは1997年のサミーが出した『黄龍の耳』であった。これが最初かはわからないが、タイアップが広まるうねりの中でアニメマンガも使われるようになったとはいえるだろう。しかし、あくまで各タイアップ先の選択肢の一つに過ぎなかった。この状況に風穴を開けるのが、2000年代に入って登場した『CRエヴァンゲリオン』とスロット『北斗の拳』である。こだわった演出が評判を博した両者は、爆発的なヒットを飛ばし、今なお続くシリーズとして歴史を残すことになる。結果、2010年代に入る頃から、アニメタイアップの台が主流になっていく。

以上では、パチンコのゲーム性の部分に着目してタイアップの広がりを跡付けてきた。駆け引きや技術という面白さが減じ、(詳しく説明していなかったが)この間一貫して射幸性も増す中で人気が減るパチンコ業界は、その人気とコンテンツの存在そのものに頼んでアニメと手を組んだのである。一方、円盤の売り上げに頼るOVA以来のビジネスモデルが行き詰まる中で、アニメ業界もまたコンテンツの使用料に依存し、タイアップが増えていったとされる。両者の行き詰まりの結節点が、大量のアニメ版権のパチンコの席巻として現れたのだろう。

ちょうど2010年に、東洋経済「パチンコ業界の憂鬱、過熱する版権争奪戦ーーあの名作がパチンコに登場する舞台裏」という記事を掲載し、以上のような事情を概説している。その結びで、版権料が高騰した結果としてタイアップは行き詰まっていくかもしれないという予測が立てられているが、現実は真逆である。パチンコ業界自体は縮小し続けてはいるが、タイアップのない台を探す方が難しく、さらに言えばそのタイアップ先もオタク系コンテンツばかりになっている。アニメ産業全体は、先日報道されたように海外での配信収入や、映画の興行の圧倒的好調などによって拡大を続けており、かつてほどにはパチンコの版権収入に頼らざるを得ない状況にあるわけでもないだろう。もちろん売れている作品とそうでない作品の格差は大きいだろうが、ある程度後ろ暗いイメージのあるパチンコといまだに手を結び続けているのはなぜだろうか。
その理由に明快な解答を与えるのは難しいが、一つにはギャンブル性のあるものにオタク業界自体が慣れてしまっているという現実があるのではないだろうか。2000年代にはなかったスマホゲームの「ガチャ」「課金」の登場後、もはや自明のものとなっていくにつれて、パチンコパチスロというギャンブルにアニメが使われることへのユーザーの忌避感を減らしているのではないだろうか。あるいは、そういった雰囲気の最終結実点として、冒頭にあげた『ウマ娘』があるといえるのかもしれない。最近では漫画家の水上悟志氏がパチンコに許諾は出さないと表明したことがニュースになったが、メガタイトルを除けばそういったスタンスに立つ人は少ないだろう。そして氏もまた、金銭的に受けたほうがいいかもしれないが、という葛藤をのぞかせている。ガチャやスパチャといった形で「推し」への貢献を前面にお金を集めることに倫理的ためらいの薄れたいま、パチンコになった程度で気にしない、という心理があるのではないか。そもそも、アニメがパチンコになることが一般化した今、そういったことを意識されること自体がないという側面もあるかもしれない。

この文章はパチンコを、あるいはパチンコとタイアップするアニメを倫理的に断罪することが目的ではない。というか普通に打つことのある筆者にはその資格はないし、ガチャもパチンコも競馬も競艇麻雀も、適切に遊んでいる分にはいいだろうと本気で思っている。もちろん依存症の問題やギャンブルの一般化が良いこととは思わないし、ある程度数を減らしていくのはしょうがないし必要だという思いもあるが、そういった「悪いこと」をすべてなくしてしまえば万事解決とも思わない。ただ、ここで言いたかったのは、『ウマ娘』のようにギャンブルと接近しているようでそれを漂白する部分がある一方で、こういったギャンブルと切っても切り離せない文化的歴史的文脈が、今のオタク産業やアニメ産業には通底しているということである。

[参考文献]
・サミー(https://www.sammy.co.jp)

・KYORAKU(https://www.kyoraku.co.jp)

・藤商事(https://www.fujimarukun.co.jp)

・SANKYO(https://www.sankyo-fever.jp/?_ga=2.122378575.577350307.1735632517-1222891606.1735632517&_gl=1*2n2mkz*_ga*MTIyMjg5MTYwNi4xNzM1NjMyNTE3*_ga_KDBPLJ4B7F*MTczNTYzMjUxOC4xLjAuMTczNTYzMjUxOC42MC4wLjA.)

・山佐(https://yamasa-next.co.jp)

DMMぱちタウンhttps://p-town.dmm.com/machines/pachinko?page=115

・「人気漫画家が「パチンコ・パチスロ化は基本的に許可を出しません」持論を展開」、https://www.j-cast.com/2024/05/16483863.html?p=all

東洋経済「パチンコ産業の憂鬱、過熱する版権争奪戦--あの名作がパチンコに登場する舞台裏」、

https://toyokeizai.net/articles/-/3758

HONZ「『パチンコがアニメだらけになった理由』」、https://honz.jp/articles/-/2429

・福井弘教「「ゲーム」としてのパチンコに関する検討:演出の変遷を中心に」、https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/records/18369

*1:なお、子供向けアニメの『ぐんまちゃん』においてオートレースが描かれ、少し問題になったこともあり、それも含めれば公営競技すべてアニメ化している

読書ノート:Rethinking Plasticity (Furuhata Yuriko, 2011)

"Rethinking Plasticity: The Politics and Production of the Animated Image"

https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/1746847710391226?journalCode=anma

こちらの論文のレジュメを切ったので備忘録も兼ねて掲載。批判点や疑問点は最後にまとめて書きます。著者のFuruhata氏はマギル大学でトーマス・ラマールのもとで研究をしていた人らしい。

以下本文

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本論文の主題……可塑性 Plasticity  という概念についての問題 

・数々の理論家がこの問題について議論してきたが、その議論はスクリーンに見えるイメージの潜在的な可塑性に集中してきた。つまりは映像作品そのものについてしか議論されてこなかった。 

・「イメージそのものを超えた可塑性の概念について考える新しい方法を探求することもまたアニメーション研究にとって有用である」(26) 

・初期ディズニー映画についての一連の論考を通して、可塑性という概念に考察を加えたい 

セルアニメーションと可塑性の関係の議論を、イメージの「知覚」を超えてイメージの「制作」の物質的な過程へと拡張したい、というのが本論文の主な主張 

 

・そのために引かれるのが今村太平と花田清輝であるが、彼らのディズニー論に行く前にフランクフルト学派エイゼンシテインのディズニー観を確認する。そこからは、当時の理論家たちのディズニーへの関心が、共通するフォーディズム1への懸念から湧いていることが見て取れる……労働的観点から読むことの必要性 

 

・まず2人の理論を導入したのち、それをアニメーションという媒体と、アニメーションの制作に関わる労働の組織化という二つの物質的状況と関係づけることで論考を進めることとなる。 

…現代の労働の問題へと続いていく 

 

フランクフルト学派とディズニー 

ベンヤミン…1930年代。ディズニーを近代の工業的生活に侵され疲弊している人々に慰めの夢を与えるものだと主張。ディズニーをユートピア的なものと評価 

ホルクハイマー・アドルノ…資本主義の統制の共犯者であると批判。殴られるドナルド・ダックは独裁者の暴力に大衆を慣れさせるものであり、ディズニーとは自動化するフォーディズム的労働の表れだと見た。 

 

・そして実際、ディズニー自身もフォーディズム(細分化、機械化による労働の孤立化と、それと同時に行う待遇改善)を導入したスタジオを構築していた 

・しかし彼らはディズニーの映像しか議論の俎上にあげていない 

 

エイゼンシテインとディズニー 

エイゼンシテインもまたベンヤミンと同様のことを考えてはいるが、ディズニーが与えるのは一時的な慰めであり、大衆を現実から目を逸らさせる装置だと考えている。だが、それはつまりフォーディズムの外側にディズニーを置いているとも言える 

 

・重要なのは、エイゼンシテインフォーディズムのもとで抑圧される労働者たちは原形質性を求めるのであり、それはアニメーションの可変的な性質によって実現されていると考えていること 

・しかし、エイゼンシテインもまたディズニースタジオ自体のフォーディズムには触れていない(ディズニーを「善悪の彼岸にいる」と表現している) 

 

・ここで、重要な視点を得るために参考になるのが今村太平と花田清輝である 

 

今村太平とディズニー 

・今村太平も、それに続く花田清輝も、ヘーゲルマルクスの哲学に大きな影響を受けていることに留意すべきである 

 

・今村はエイゼンシテインと同様に工業的資本主義とディズニーの関係に関心を持っているが、そのアプローチは本質的に分かれている 

・今村は工業的合理化と技術への礼賛をディズニーの世界に見出している 

 

・しかし重要なのは、彼がイメージを制作するその過程に、特に実写映像と写真を利用していることに目を向けている点である 

 

・今村の見るアニメーション史では、初期の視覚的玩具(ゾートロープなど)とセルアニメーションの時代の間には根本的な隔絶がある。その隔絶を作り出したのは写真の発明である 

・今村にとって、エドワード・マイブリッジの連続写真の発明を考えなければ、ディズニーについて考えたことにならない 

 

・今村の見解では、かつての玩具のような画像の動きは「仮定的」なものに過ぎなかったが、連続写真を上映した画像の動きは、カメラが捉えた実際の動きの再構築である以上、もはや仮定的ではない 

・制作においてカメラを利用している時点で、ディズニーは今村にとって初期のアニメーション装置と異なる。そこがディズニーの独特さである 

・ここで指摘しなければならないのは、今村のいうカメラの利用は、ロトスコープについての話ではない。カメラが記録した映像をコマごとに分析し、アニメーションとして再構成するという方法に関心がある(これは続く花田も同様) 

・そして、この写真の利用は、生産性の向上という観点から見ると、フォーディズムに即したディズニースタジオの工業化と同時に進行したと言える 

 

・今村はアニメーション制作の過程に関わる労働の分断divisionを、動きのフィルム写真への分解decompositionと比較し、またこの分断と分解の過程をフォード式生産様式と比較している。 

……ディズニーの写真の利用と変形と、ディズニーのフォード的制作過程の間に見出される繋がり 

 

花田清輝とディズニー 

・今村に影響を受けた花田は、ディズニーの制作様式は科学的観察というドキュメンタリー的な過程とイメージの変形というアヴァンギャルド的な過程の弁証法的総合であると主張した 

・ディズニー映画の内容を批判しつつ、その制作方法を、マルクス主義的な意味で弁証法的だとみなし、賞賛した 

 

・カメラが記録した動きが手で描く過程で変形され、一部は捨象されると同時に一部は残るという過程を経て、最終的な作品で総合されるということが、彼にとって弁証法的だった 

 

・花田の理論により、アニメーションに関わる可塑性の全く異なる概念を我々は構築することができる 

・可塑性を、形成formationと変形transformationという弁証法的過程の一種と捉えるのである 

・フランスの哲学者Catherine Malabou は形式を受け取りつつ与えるという弁証法的過程としての可塑性をヘーゲル哲学の中核概念だとみた 

・この可塑性の概念を花田の理論とともに考えると、可塑性とは、アニメーションのイメージそのものの、描かれたものが上映される中で伸びたり縮んだりするという展性のことだけではなく、イメージの制作の物質的過程をも指し示すと言えるだろう 

 

・この可塑性の議論は、花田の大衆論にも見出せる 

・花田にとって、大衆は外部の力に流されるように見えても、自分を変える力を持つ存在である(可塑性) 

・この大衆の変化する力は、フォーディズムにとっても重要である。なぜならば、ベルトコンベア式の労働は、その様式に身を慣れさせるという変化を要するから 

 

・こうしてみると、初期ディズニーは可塑性の二つの対立する様式を具現化していると言える。 

  1. イメージの制作という物質的過程
  2. 労働者の体を組織化するという規律の過程

 

・2人の理論は、こうしたフォーディズムとの直接的な関係の中で可塑性を再考するように促す 

 

 

結論 

・以上のように、メディアのレベルだけでなく労働のレベルで可塑性を考えることの必要性がわかってきた 

フォーディズムの中の可塑性は、労働者側一方だけの概念である。その点がフォーディズムの特徴とも言える 

 

・1970年以降、労働の流動性が言われるようになっており、ポストフォーディズムとも言われる。だがそこにも形を変えた可塑性が見出せるとの指摘もある 

 

・今村や花田の理論のように、現在の3Dアニメーションや実写との融合などを論じることも、またポストフォーディズムの労働のあり方について考えることもできるのではないだろうか 

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面白かった点としては、

・動きの作りにおける弁証法という観点など、今村・花田の理論の良い紹介となっていて面白い。

・アニメーションの労働環境への見方をアニメーション理論と接合しようという試み自体、意義があると思う

 

批判点としては、

フランクフルト学派エイゼンシテインの理論についての解説がさらっとしていて、特に前者が本当に画像にしか注目していないのか疑問が残る。

・Plasticity可塑性という言葉を用いているからとアニメーション理論と労働問題の理論をつなげるのはあまりに雑な論理でないか(この辺はラマールにも似たようなところがあると思う)。アニメーションはもともと魂(anima)からきてるんですよ、だからアニメには魂がこもってる!みたいな雑語りとほぼ同じ水準だと思う。

 

と言った感じ。論旨全体には頷けないが、部分部分で見ると面白いところやより深く知りたくなるようなところがあり読んでいて楽しい論文だった。また、英語自体も読みやすくかつ構成もわかりやすいのもいいポイントだった。最後の2ページくらい急展開で労働問題の話になるのでそこだけ注意が必要だが…

 

『アニメ・マシーン』雑感

小規模ながら読書会を初めて主催してきて、最初の一冊に決めていた"The Anime Machine"が終わったので備忘録的に感想を残しておきたい。 と言っても、原文で全部精読するのは冗長ということで、読んだのは有名なアニメティズムとシネマティズムに関わる「サビ」の部分のみなのだが。

ちなみにこの記事を書き始めた理由は、書くにあたってハードルを下げることで更新頻度を増やすため。

 

注:ほぼ思ったことの書き連ねなので読む価値はないと思いますがご容赦を。

 

・アニメティズムについて

この理論自体が引用されるときには、いわゆるレイヤーを感じさせるような演出や動きについての美学的な部分にのみフォーカスされることが多いように思う。例えば『新映画論』では宮崎やガイナックスのアニメ特有の平面的な空間構成をアニメティズムと捉え、山田尚子の『聲の形』のようなカメラっぽい演出によるレイヤーの強調を「擬似シネマティズム表現」と呼んでいる。こうした見方がおかしいというわけでないが、実際に原文を見るとラマールはかなり文明論的な視点でアニメ(ティズム)を考えている。近代的な、デカルト的合理主義=線遠近法に沿った動きの様式としてのシネマティズム(3D座標、弾丸、弾道の視点)に対して、そうでない世界の見方を提供するものとしてアニメティズム(パノラマ、撮影台、レイヤー)が注目されている。こうしたメディア論、文明論的な部分を無視して引用するのは少々強引に思える。少なくともその点について一言必要だろう。

そうは言ったものの、私はこうしたラマールの議論のしかたにあまり賛同できない。特に、宮崎の反近代技術という側面を、彼のレイアウトや撮影台の使い方といった技術のアニメティズムとしての卓越さと結びつけて、彼の作品に近代への疑問が見出せるという議論の進め方は牽強付会と言わざるを得ない。あるいは、宮崎の映画の脚本が「直線的な」動きを示さないことを、シネマティズム(近代)への反抗として捉えるあたりも疑問符が浮かぶ。以上のような論者がこうした文明論的側面を落としがちなのも、こうした強引さを拭い切れないからだろう。(だとしても何らかの言及が必要だろう。東の「データベース消費」をただの「萌え」論として読み、ポストモダンという問題意識を無視するのと似ている気がする。)

 

・理論の扱い方

シネマティズムとアニメティズムについて、両極端の、二項対立的なものとして捉えられがちだが、実際のところラマールは両者を混交的なものとして捉えているのがわかる。実際の作品がどちらかでしかない!ということはない。そういう意味で、いたずらに両者の間を切り分けて細分化していく議論も必要性、説得性を示すことがかなり難しいように思う。

小倉健太郎論文の中で、両者の間に位置するものとして「フライシャー的空間」を提唱したのも、フライシャースタジオの回転式撮影台を一つの(ガタリ=ラマール的)機械として捉える可能性を示そうとしたものだろう。アニメを平面性と不可分にしてしまいたくなるアニメティズムという発想に対してさらにオルタナティブを示す意味は理解できる一方で、それを示すことで理解できる美学的成果が果たしてそこまで大きなものなのか、両者の混交として理解できるものではないかという気もする。

ただ、ここで小倉のことを引用したのは別に彼を批判したいというわけではなく、彼の論文に関連して、理論というものをどう理解するのかという点で気になることがあったからだ。あるアニメに関する発表の中で、ある方が小倉の論文を参照して「『スチームボーイ』は実はアニメティズムではなく、フライシャー的空間だ」というような説明の仕方をしていた。しかしラマールも小倉も、「ある作品のこのシーンはこれ、他のあるシーンはこれ」といった形で理論を提唱しているわけではないはずだ。映像の我々の読解、理解の仕方をより詳しく見ていこうというのが理論的説明の主眼である(と思っている)。小倉が言いたいのは、「このシーンは「フライシャー的空間」だ」ということではなく、逆に「フライシャー的空間として捉えた方がこのシーンが理解できる!」だと思う。おそらくアニメティズムというものがほぼ特権的にラマールの具体例と結びついているのがこうした誤読の原因だと思うし、言いたいことはわかるのだが、自分でも注意しなければと思った。

 

以下余談

・英語としては最初はかなり構造のクセに悩まされたが、慣れるとスムーズに読めた。特に顕著なのは同格のカンマの多用と、強調構文の多用だ。ラマールはフランス語母語話者らしいのだが、そうした影響があるのだろうか?

・最近でた『メディア論の冒険者たち』にラマール、そしてその先行者であるガタリヴィリリオが取り上げられている。まだ読んでないが確認しておかなければならないだろう。

大塚英志「アトムの命題」

アトムの命題」の内容を要点をまとめたものです。

 

序章

・「手塚治虫、あるいは『鉄腕アトム』について語ることは、この国がいかに「戦後」を受容してきたかについて語ることに等しい。」(8)

・後述の「アトムの命題」がいかに戦後、その前史としての戦前・戦時下・占領期に根ざしているか、が全体のテーマ。

・アニメ漫画などのポピュラーカルチャーはしばしば歴史性を欠いているものとみなされるが、間違いなく歴史の所産。

 

第1章

・『新宝島』の、特に映画的手法の衝撃を語るトキワ荘系の漫画家たち。

 ・映画的手法が手塚の方法論として言及されるのは昭和30年代末~40年代前半。

 ・しかし、手塚自身は、漫画家の技法書[1]の中では特に映像的手法について言及しない。

→仮説 ①手塚は「映画的手法」を決して技術的に中心的には自覚していない。

            ②「映画的手法」はトキワ荘グループにより体系化された。

            ③この体系化の中で『新宝島』が起源として発見された。

……「神話」としての「新宝島体験」

・この歴史観では手塚マンガの歴史的意味合いを見失う可能性。

 

・ここで注目されるのが(しばしば手塚の特徴と指摘される)「デフォルメ」という技法の問題。

 ・石森は写実的なデッサンを誇張したものとしてデフォルメを定式化

 ・しかし手塚の技法書には登場しない。

→西上ハルオ[2]は手塚の絵の特徴を、「デフォルメ」でなく、類型化したイメージに正確に対応した絵を描ける点に見出した。

→これが手塚まんがを「映画的手法」以上に本質的に規定する方法なのではないか。

=「まんが記号説」

 

第2章

手塚の「まんが記号説」

……(手塚の)まんがの絵は、決まったパターンの、記号化[3]した絵の組み合わせでしかない。

「ある特殊な文字で話を書いている」(63)「構成要素の順列組み合わせ」(68)

東浩紀の「データベース消費」との類似性。

……ギャルゲーや萌えの源流に手塚の方法論がある。歴史的にキャラクターは構成要素への還元可能性をもつ。[4]

・「まんが記号説」の根本=「人間像そのものを「記号」「類型」として把握する視線」(76)

……・手塚自身が、マンガ史的に蓄積された「記号」をデータベース的に集積し利用したことに自覚的であった。

・「記号」の発見者としての田河水泡

・「記号」が本来の指示対象を想像させないほどに「独特のフォルム化」されている。

→手塚はこれを「デフォルメ」とする(⇔石森のリアリズム的な「デフォルメ」)

・その後、田河の作風はリアリズム的に変化

……戦時中の「記号」的な絵が「肉体」をもったものになってしまうという変化は、手塚にも同様に見出される。

→田河と同様に手塚治虫が直面した困難さ。それはいかなる歴史的所産だったのか。

 

第3章

夏目房之介の「まんが記号説」の理解

・古典的な記号の細分化によって心理・感情表現を豊かにした。

→「ここに手塚マンガの、そして、彼の方法に根源的に呪縛されている戦後まんがの本質的な困難さ」

「問題はそれ(引用注:感情表現の細分化)を「記号」的表現という古典的な手法の修正に於いて行おうとした点にある」(91)

古典的まんがのキャラクター表現

・「平面性」[5](マックス・リュティ)

内面と身体において「奥行き」がなく、線的な展開の中で極端な「美しさ」や「悪」を体現し、痛み苦しみも描かれない。

→手塚まんがや、古典的なキャラクターはこの平面性をもつ。

・「平面性」=「記号性」と見うる。

 

・そもそも、手塚はなぜ古典的まんが以上のことを語ろうとしたのか。その動機は?

・なぜ彼は記号としてのまんがを執拗に語るのか。

→注目すべきは、『新宝島』以前の習作群。

古典的キャラクターの受容の過程が見えるはず。

『勝利の日まで』(昭和20年6月作?)

……戦争との関わりの中で手塚まんがの特性がいかに発生したかを知る重要な手がかり

本作における記号的表現・リアリズムのあり方の「3種類の水準」

  1. 古典的な記号的キャラクター:戦前
  2. 精密なリアリズム:戦後
  3. 矛盾する上の二つの手法を統合した特異な水準

「戦前・戦時下のまんが表現への変容」

1.の水準

・手塚の引用するキャラクターたちは古典的なまんがの文法に従わざるを得ない。

→戦争との関わりにより、引用元の文法の範疇を超えた反応をキャラクターは示さざるを得ない。

→記号である以上不可能な、約束事からの逸脱を求められる。

 

・記号的表現のないコマ

  • 日常的な場面
  • 空爆される街や米軍機の描写

→第2の作画技法、「徹底した写実主義

『勝利の日まで』

前半:リアリズムが記号的まんが表現に侵入しつつも、後者が優位。

 ⇅コントラスト

後半:キャラクターたちはリアリズムに侵入され、圧倒される。

 

・手塚はリアリズムで、圧倒的な戦争の「現実」を描写してしまった。

……戦時下の科学的な描法との関わりcf.「兵器リアリズム」(大塚)プラモデルの箱絵や雑誌の口絵に見られる、兵器の模式図特有のリアリティ。

……なぜ、本作ではまんが的非リアリズムと科学的リアリズムが共存しているのか。

 

・戦前の漫画では、両者は棲み分けられている。

・「夢」「作中作」「ファンタジー」などで両者は明確に分かれ、二つのイデオロギーの間に軋轢はない。

・逆に、『勝利』ではその軋轢が表面化していると言える。

→人間存在を圧倒的に超越する、不条理な戦争という「現実」としての「リアリズム」[6]の戦闘機は、「平面的」なキャラクターの世界に侵入し、「心」も「身体」も傷つく存在になる、という新しい局面。

第3の水準

 

・「映像的手法」の発生

……ストーリー漫画とは実は別のきっかけで手塚の中で生じる。

 

・さらに『勝利』の中で発生した手法の存在=「死にいく身体」

・トン吉くんが撃たれる一コマ

・「手塚はここで記号の集積に過ぎない、非リアリズム的手法で描かれたキャラクターに、撃たれれば血を流す生身の肉体を与えている」(137)

→「戦後まんが」の発生の瞬間。

 

簡単に図式化するならば、

[戦争という不条理な現実]→[まんが記号の限界]→[不条理を覚える「心」と「身体」の獲得]→[まんが記号の微細化]+[映画的な構図・カット割]

という順序になる。

 

・しかし、記号的で「平面的」なキャラクター表現を用いて、リアリズム的な「心」と「身体」を追求するという困難さ・矛盾

→戦後まんがの進化の原動力+戦後まんがの主題

 

第4章

・手塚のタッチの新しさという『新宝島』の衝撃の一側面

→この新しさとは何か?

・新しさの基調としての戦後における手塚のディズニー受容の仕方を検証

 

・手塚にとって、ディズニーは占領軍文化・アメリカニズムの象徴

・ディズニー的表現と占領軍の視点は表裏一体

 

・手塚のタッチはいかにしてディズニー化したのか。

……『勝利』で一度ディズニー的表現から逸脱したものの、デビュー時にはまた意図的にそれを受容しなおしている。

 

新宝島』:主人公の等身は安定せず、冒頭は低かった(ディズニー的)のが高くなっていく。(未消化のまま混在している)

『魔法屋敷』:「魔法」(ディズニー的)と「科学」(リアリズム)の戦い

・過度なディズニー的なものからの脱却

・「魔法」→「科学」と立場を変える「たぬき」

地底国の怪人』(cf.ストーリーまんがとは何かby森下)

・科学的リアリズムがまんが的虚構を再定義する。

……科学の力で生まれたディズニー的キャラクターとしての、耳男。

「ディズニー世界から手塚世界の住人になったことで、「傷つく心」を与えられたのと同時に「死にいく体」をも与えられた」(179)

ロストワールド

・植物から生み出された少女

→その目的は「およめさん」にするため+ラストはママンゴ星のアダムとイヴになる。

「性をもつ身体」

=ディズニー的世界からの逸脱

 

→しかしながら、「性を与えられた少年少女たちはこの後成熟を留保し続けねばならない運命」(184)

 

第5章

・手塚の目指したのは、非リアリズム的記号によるリアリズム

・一方で、絵によるリアリズム表現も試みられていた

→『幽霊男』(『勝利』や習作版『ロストワールド』と同時期、敗戦間近の作)のコブラ姫(「性をもつ体」の系譜)

・手塚は人工的身体・記号的身体に性を与えようとする博士の欲望を繰り返し描く。

(←80年代以降の「おたく的表現」の問題との連続性)

コブラ姫はまだ記号化していない。記号的美少女の源流にある「リアリズム」的なコブラ

……「手塚が「記号」の向こう側に何を隠していたのかが窺われる」(198)

・人造かつ生身でもある、矛盾した身体をもつキャラクターのリアリズム

→記号的表現の過程の中で重要

 

習作版『ロストワールド』:生々しい性・死・残虐描写。リアリズムの暴走

メトロポリス

・「記号的表現」への自己言及

 ・ミッチィはタンパク質を持ち、内臓の存在が示唆される。

 ……記号的身体との決定的な違い

→ミッキーとは違う、生々しく中身の詰まった「身体」

アトム大使

・アトムは対立する2国間の「和平大使」

→日米講和の時代の反映

・強大な力を持ちつつ対話による平和を模索するアトム

……「日本国憲法的平和主義」(218戦後民主主義の申し子。

手塚のキャラクター:「記号」的キャラクターに生身の身体=成長し死ぬ運命

「アトム」:「人間の生まれ変わり」だが、人工であるために成長できない。

→手塚の手法への批評的な自己言及。

→記号によるまんがの表現方法の限界への自己言及であり、同時に戦後まんが史を通底する主題の成立。

アトムの命題

「成熟の不可能性を与えられたキャラクターは、しかし、いかにして成長しうるのか」

アトム大使』の結論……平和大使の役目を全うする事で「おとな」のかおを得て、成長する。

→・日本をアメリカが成長させる、というマッカーサーの呪縛を暗示

 ・和平に反対しアトムを嫌う天馬博士……当時の日本人の抱えた矛盾

アメリカとの単独講和によらない、もう一つの日本のありえた「成長」を暗示する「アトム」の成長。

 

→「アトムの命題」は戦後まんがの問題として受け継がれ続ける。

Ex.ピノコどろろ星飛雄馬、矢吹城など

これらの名作が「自身の身体性への違和感を抱え、その上に彼らの「心」を萌芽し、そして、それが「まんが」という本来、非リアリズム的表現である手法によって」描かれた。(228)

……「アトムの命題」ゆえ

→映画的手法以上に戦後まんが史を本質から規定している

この「アトムの命題」は、戦前から戦後の歴史体験の中で、蓄積され、受容し、主題化。

 記号的表現との戦いと同時に、歴史と政治との軋轢の中で生じたもの。

 

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[1] 漫画家自身が子供や若い読者向けに漫画の書き方を説明する本。大塚だけでなくマンガ研究の本ではしばしば作家の自覚する方法論の参照点となる。

[2]新宝島』をトレス刊行した人物。手塚マンガの映像的手法について文章を残した。

[3] 「記号的」とか「記号化」は、文字と同様に、汗=焦り、雷=驚き、砂埃=スピードのようにある程度1対1対応する意味内容を示す「シンボル」としての記号を指している。単に絵柄が単純、ハンコ絵だといった話ではない。

[4] データベース消費の問題意識は絵柄のみに囚われた話ではなく、文化論としておたく/ポストモダンの人々が何を消費しているのかまで関わるものであるはず。大塚も決してギャルゲーにいきなり構成要素への還元可能性が現れたわけではないと指摘しているのみだが、少なくともこの点によって東の理論が無価値になるものではない。

[5] 絵柄の話ではないことに注意すべき。いわゆる「スーパーフラット」のような話ではない。

[6] ここでいう現実やリアリズムは絵柄の正確さにとどまらず、何を描くかという次元に踏み込んでいる。

 

以下感想

キャラクターの身体論の一つの古典なので読んでみたのですが、非常に論点がはっきりしていて読みやすいので、学部生が最初に読む本としていいのではと思った。値段的にも。

いわゆるキャラ/キャラクター論にも通ずる論点が詰まっているわけだが、個人的には「性をもつ体」という話が非常に面白く感じられた。エロ漫画なんかはもはや一般化しているのだが、そこにある一種の転倒に注目した理論的研究もありかもしれないーー